見出し画像

プロフィール

 宮城県出身(生まれは岐阜県揖斐川。2歳までだが大きくなってから同じ病院で数ヶ月違いで生まれた方と出会い姉弟の様になっていたり、ご近所さんも同い年で 岐阜出身だったりそのお友達とも仲良くなったり...円空さんが好き)

10才 宮城県本吉町津谷『ヨネザワ』第2回プラモデルコンテスト優勝。(基本ガンダムメインだがこの時はダグラムである...プラモ大好き)シャアザクを改造して旧式ザクにする(口からのパイプとか数カ所取っただけ...しかし小学生には勇気のいる事であった)学校が少しざわつく『聞いだが?みんの(みのる)旧ザク作ったてさ...』 (可愛い...可愛いぞ我がふるさとの幼子たち)

17才 宮城県気仙沼高校商業科3年時にニュージーランドにラグビー遠征。試合とホームステイ...その感動で大学を目指す。ちなみに部員(20数名?)の日記が地元紙に毎日載るのだが2巡、3巡?しても私だけ載らない。私だけ内容が皆と違っていて、出る杭は打たれる?見なかったことにされる社会を垣間見て今に見ておれと誓った(何を?)

18才 美大受験浪人、上京。新聞奨学生となり2時半起床3時より折込を入れ始め、有り余る体力、ママチャリで200軒?とかだったかな配りまくる。予備校に通う描く、寝る、描く、夕刊あるので授業途中で帰る(講評途中とか)。新聞奨学生は1年だけだが4年浪人させてもらった事、これがのちに財産となる

22才 都内の美大に入学。5度目の受験で初めてまともに描けた。いつの間にか大学受験で受かる受からないが全てになっていて、4浪目の夏、自転車で千葉県松戸から生まれた岐阜県揖斐川目指し旅をし、真夏の太陽の下『どうでもいいんじゃあああ...(受験)』と叫びながら爆漕ぎする(国道1号線海沿い、人は居ない。気持ちいい)そこで『あっ絵はどこででも描けるんだ』と気づく。仏師になろうと決めて最後の受験だと挑んだ試験で『弥勒菩薩(後にも先にも出たことはない)』がモチーフに出たのは...ああ、なんか色々感謝である

 入学間も無く、入らないはずのラグビー部に入ってしまう(草ラグビーですでに怪我をしていたので)。経験者という事ですぐ試合、で怪我。どちらも膝で、ものすごく苦しんだが病院何軒行ってもきちんとした診断してもらえず、(自分でも治るだろうと思っている)足を引きずる生活を長い事する...これはもうあかんと専門医に診てもらい驚かれる。『こんな状態初めて診たよ...w』(自分のアホさを認識し始める...遅い!)結果両膝4度の手術をする(充実の入院生活)

28才 大学生活6年の集大成、大学院陶芸専攻修了作品展で『トーキマン』を出展。今まで陶芸科の中で浮いていて寂しさがあったが最後の最後で表現する者として人生を左右する事があった。                             最後の講評会で初めてトーキマンを装着するのだが、これは私が身に着ける陶製の鎧で重さ約40キロほどある。陶は高温で焼成する事で2割ほど収縮するのでまず全身の型を石膏で型取りする。型から等身像を水粘土で成形し、そこから2割増の等身像にする。それを覆うように焼き物の土で鎧を作っていく。 乾燥、焼成で形が歪む。それを歪む事なく焼き上げる技術は日本で、いや世界で私だけであろう(そこに労力をかける人はいないであろう...から!)しかし多くの友人の手助けがあってできた事、それが一番大事

 さて講評会。初めての装着、今までに味わったことのない重さ、そして圧迫感。視界は辛うじて確保できているものの、少しでも衝撃があれば壊れてしまう繊細さ、重さと相まってそろりそろりと後輩のゆりちゃんに手を引いてもらって、講評会という闘いの場に向かう。胸がドキドキしているのはゆりちゃんが手を引いてくれているだけではなく、陶の収縮で胸を圧迫しているだけでもなく(流石に圧迫しすぎるので後に内部をグラインダーで削る、ハアハアしてくる)先生方、科の皆の前に今まで浮いていたであろう自分がどう映るんだろう、笑ってくれるだろうか...?そのドキドキもあった                   

 皆さんお気づきでしょうか?ここで先ほど、キーワード出ました『笑ってくれるだろうか...?』って6年間の作ることの集大成(予備校から数えたら10年分のなんか)で『笑い』を考えているのですよ。決して笑かそうとは思ってるわけではなく自分が必死こいて泣いて笑って喧嘩して〜それだけに全部を注いで出してきたものが結果笑ってもらえる、何か伝わると信じていた。多分考え抜いた笑いの技術、芸とはちょっと違う、自分なりの藝(げい)なのかなと思う 

 さあ、全身全霊の藝で出て行こうではないか。堂々と前に進め(危ない箇所は手を引いてもらっているが)滑ってもいいじゃないか、それも面白い。一番怖いことは無反応、無関心...だが鎧兜の中(マスクタイプ)で照れと重さと緊張でハアハア言ってる自分がすでに可笑しかった。怖いものはなかった。          自分の番が来て教室(作業場)の外から闘いの場(講評会)に向かう。中で私を見つけた後輩が、同級生が、先生たちが外に出て来て私を囲む。笑ってくれたり、かっこいいと称賛してくれている...その微かな兜の視界から見た光景は一生忘れないであろう。どんなすごい評論の言葉や賞なんかより宝物だ。今思い出してもウルウルしてくる。浮いてた寂しさなんて吹き飛んだ。たくさんの言葉をもらった気がする

 これが私が一番表現したいこと。『トーキマン』をまた作りたいわけじゃなくて鎧兜から見たこの光景を作りたい。この2007年に初めてギャラリーの企画展(貸ギャラリーさんでの個展はあったが)をさせてもらう(六本木サボアヴィーブル)から2019年まで12年間この『トーキマン(画像)』を出すことはなかった。学生時代の青臭いもの、と抑えていた。だけど後に全く作る意味を見出せなくなった時(介護とか色々重なり...全く心が動かなくなってしまった)そんな時に『芸人』さんに勇気をもらった。『笑ってもらいたいんや』一緒だと思った。ずっと探していた肩書。肩書なんて...と思うなかれ(自分がそう思っていた)自分の芯を知る、自覚するきっかけになるね。『芸人』だ...自分

  作品をお嫁に出して生きていく、それを生業としたかった。今は違うということでは無いけれどそこが芯ではない。そこはもちろんとっても大事なことなんだけど芯にしちゃうと...あまり笑えなくなる...。他者を元気にできるか?喜んでもらえるか?笑ってもらえるか?そう考えると自分以上の力が出たりする。それで一番重要なのが『自分が笑っているかどうか?』そう思う

47才 地元の県立高校で美術の非常勤講師を5年間やらせてもらった。     おじいさんになっても居たかったほど子供たちから色々学んでいたかった。   そう思えば思うほど離れなくてはとも思った。私から応援しているつもりがいつの間にか応援されていた。子供たちを一人ひとり注意深くケアしていたつもりが、私の方がケアされていた。そんな関係を築けただけで、なんというかもう...泣いちゃう。人生のご褒美?の時間であった。                    今度は外で闘っている姿を見てもらいたい。その勇気をたくさん頂いた。

さあ、芸(藝?)で生きるぞ!

まだまだこれから

*写真『ひじよせ子』

#自己紹介




    


この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?