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小説 【月の雫さん】②

――大変お待たせしました。「なつ」は随分と大きくなりました。これで安心して柚原様にお渡しできると思います――

 良かったと思うと同じく、若干の不安をどこかに抱えたまま、私は新しい命を迎える覚悟を新たにした。譲り受けるのはぬいぐるみではなく、抱けば自分と同じように体温を持つ生き物だと。
 いよいよ、添田さんと譲渡について具体的な段取りに入った。偶然にも、彼女は隣の町にお住まいだった。

――お隣の町ですし、私の方から添田さんのお宅へ伺おうと思いますが――

――いいえ、こちらから「なつ」を連れて行きます。猫を飼う環境が整っているのかどうか、また里親詐欺などを防ぐために、そういうルールになっておりますので。

――里親詐欺?―― 

――いえ、そちら様を信用していないとか、そういうことではないんです。世の中には、里親になると言って猫を貰ったあと、実験動物や三味線の革として販売する人がいるんです。もちろん、そんな極端なケースは稀ですが。実際に引き渡しのため里親宅へ行ってみると、飼育環境に疑問符が付くケースもあって、その場合は引き上げることもあるんです。両者互いに同意が出来たら、文書で里親契約を交わすことになりますので了承願います――

「わあ! なっちゃん良かったわねえ。お爪とぎもベッドもあるわよ!」

 開口一番リビングに入るなり、添田さんは挨拶もそこそこに叫んだ。満面に笑みを浮かべて心底嬉しそうに、小柄で少しふっくらとした丸い身体を揺すった。
 彼女の後ろから、遠慮がちにご主人も入ってきた。見るからに人の良さそうな男性で、表情といい体つきといい、添田夫婦はどこかしら似ているのだった。

「私も、お待ちしてましたよ」

子猫を迎える準備を万端整えて、私はこの日を待っていた。
添田さんがキャリーを開けると、しばらくの間子猫は警戒して様子を窺っていたが、その内そろりそろりとキャリーから這い出てきた。
「まあ。なんてちっちゃいの!」
私はそっと抱きあげて「なつ」の顔を覗き込んだ。丸い目は、澄んだ薄いグレー。四肢をばたつかせるので胸に抱くと、意外に鋭く細い爪が私の皮膚にくい込む。

「あの名前なんですけど、『マリン』という名に変えてもいいですか」
「もちろんですとも」
「よかった! ありがとうございます。マリンちゃん、よろしくね」

私は猫の顔を覗き込んで、新しい名で呼び掛けた。そして、マリンの変形した尻尾を指でそっとなぞった。
 そのあと添田さんご夫妻と、猫のことなどたわいないことをあれこれと世間話をした。
 といっても、会話をしているのは専ら女ふたりで、ご主人は終始控えめに微笑んでいるだけだった。私たち夫婦同様、添田さんご夫婦にも子どもがなく、猫が我が子同然の存在だというので、目の前の若いふたりにより親しみが増す。

 よく見ると、彼はアレルギーなのか目の周り、首筋や二の腕など皮膚の柔らかいところに湿疹が見て取れた。無意識のうちにポリポリと掻いている。
 ふいに、いつかブログで見た添田さんの部屋の様子が思い浮かんだ。
 この人は明らかにアレルギーの症状が出ているのに、あんなに多くの猫と暮らしていていいのだろうか。彼は、自身の体調と猫を天秤にかけて、猫との暮らしを優先させているのだろうか。どこか歪さを感じながらも、猫に魅せられた者としてわからなくもないのだった。 

 私が、添田さんの七匹の飼い猫と保護猫の話題に触れると、彼女の話しぶりが一層熱を帯びる。彼女の話に口を挟むのに、機会を窺わなくてはならないほどの早口だ。
 ご主人は時々首や腕を掻きながら、横で静かに頷いている。彼の様子に、妻の猫に対する一途な想いに少々押され気味な夫の姿が垣間見える。我が家と同じく、月の雫さん宅も奥さん主導なのかしらと微笑ましくもある。

「それでは最後に、書面にて譲渡契約を交わしたいと思います」
 ひとしきり歓談したところで、彼女が書類を取り出した。そこにはいくつかの約束事が書かれている。
 完全室内飼いをすること。時期が来たら去勢・避妊手術を受けさせること。時々に写真を送り報告すること。もし飼うことが困難になった場合は、必ず元親に連絡すること等々。
 私たちは契約を交わした。甲と乙。元親の添田さんが甲で、里親の私が乙だった。
 
 二人が帰ったあと、初対面のご夫婦との会話に少し疲れを覚えた私は、ソファの上に横たわった。するとマリンは、ここが私の場所と言わんばかりに、私の胸の上ににじり上ってきてゴロゴロと喉を鳴らした。私は、壊れそうなほど小さなマリンをすっぽりと腕に抱きくるめて頬擦りをした。

今日から私がママだよ。ずっと一緒にいようね。
 私は胸の内でそう話しかけると、小さなマリンと束の間の眠りに落ちたのだった。

 マリンを迎えてから、これまでにない潤いと癒しのある暮らしが始まった。マリンは、添田さんから申し送りがあったとおり食は細かったが、好奇心旺盛ですばしこく利発な猫だった。子どものいない私たち夫婦の間に、今日はマリンがこうしたの、どうしただのと、実に他愛もない話題に会話も弾むのだった。

 それにしても可愛らしい子猫の時期は、あっという間だ。大きくなってしまうのが勿体なくて、私は毎日膨大な写真を撮り続けた。そして、マリンの写真をメールに添付して添田さんに送った。

 約束どおり、マリンが一歳になる直前に避妊の手術を受けさせ痛々しい包帯姿のマリンの写真を彼女に送り、約束を果たしていることの証明とした。  抜糸し体力も回復した頃をもって、私は添田さんへの報告を区切りとした。里親として責任を持って飼育する姿勢を、彼女に充分示せたと思ったからだった。

「もしもし麻紀さん、あなた新しい猫ちゃんいらない? 近所の幼稚園に子猫が三匹捨てられてて、貰い手を探してるんですって。あなたが猫好きなの思い出して、どうかしらと思って電話したのよ」
「うーん。そうねえ」
 いや、そんなこと突然言われてもと心の中で思った。近くに住む友人からの電話だ。

「そうよね、すぐ返事なんてできないわよね。でももし興味があったら、緑地公園通りのファニー動物病院で保護されてるから見に行ってみて。〝幼稚園の仔〟って言えばわかるから」
 
 電話を切ったあと、私はソファの上で眠りこけているマリンを見やった。
 マリンは三歳になっていた。私にとてもよく懐いている。というより、べったりだ。飼い主としてこんなに嬉しいことはないけれど、家にいる時はベッドの中まで四六時中マリンが一緒にいるのだった。
 私が外出から帰ると、一目散に玄関まで走ってきて、私の移動するところに先回りしては、撫でろと言わんばかりに寝転がって腹を見せるほど甘えん坊で寂しがり屋なのだ。夫などは、マリンが私を後追いする姿に、まるで麻紀のストーカーだね、などと言って笑っている。
  
 もし、マリンに友だちがいたら、寂しがり屋のマリンの気が紛れて、お留守番も可哀そうじゃないかもしれない。猫が二匹、真ん丸になって寄り添って眠っている姿など想像すると、もう一匹飼ってみたいという気持ちが急に膨れあがっていった。

「ねえ、もう一匹、猫飼ってみない?」
 帰宅した夫に、開口一番そう聞いていた。が、夫の返事を待つまでもなく決めていた。
「できれば、今度は尻尾の長い仔がいいわね」
 先代猫もマリンも尻尾が変形していたので、長い尻尾にやはりあこがれた。

「あの、幼稚園の仔に会いに来たんですが」
 数日後、夫とふたりファニー動物病院を訪れた。受付でそう伝えると、その子猫は奥で預かっているからと、しばらくロビーで待つように言われた。

 ロビーの片隅には大きなケージが設置され、里親募集の札が貼られていた。覗き込むと、黒、茶トラ、サビ、三毛の四匹の子猫が入れられていた。四匹ともあこがれの長い尻尾を持っている。
 目を引いたのは、三毛猫の美しい色合いだった。薄いグレーと薄黄蘗の毛色が、程よい分量でふわりと白い背中にのっている。これまでに見たこともないようなパステルカラーの、すばらしく美しい猫だった。
 
 一瞬、この仔が〝幼稚園の仔〟だったら……、と心が動いた。が、鉤尻尾のマリンのことを思い浮かべて頭を横に振った。パステルカラーの三毛猫に比べたら、容姿で劣るマリンが不憫に思えた。私が里親にならなくても、こんなに美しい猫ならすぐにでも貰い手があるに違いない。

 それよりも、サビちゃん。と、私は思わず声を掛けた。
 サビ色の子猫は、無邪気に小さなボールで遊んでいた。別名を鼈甲猫、雑巾猫とも呼ばれるサビ色の毛並みは、その見た目から敬遠されることが多く、正直なところ私自身、畏れに近いものを感じてしまうほどだ。
 どうかこの仔にも、いいご縁がありますように。

「はい、お待たせしました。この仔が幼稚園の仔で、女の仔です」

 看護師さんが、奥から子猫を抱いてきた。
 わぁと思わず言って、私はその仔を胸に抱き取った。絵に描いたような見事な白黒八割れの猫だった。頭から背中から尻尾の先まで、びっしりと艶のある黒い毛で覆われ、反対に腹と四肢は真っ白だ。真綿のような白い手足に埋まっている愛しい肉球は黒色。
 そして、こだわりの尻尾は? あ、真っ直ぐ! 決めた、家に連れて帰ろう。そうして顔を覗き込むと、なんと鼻先に黒い点があった。まるで、黒ゴマが付いているみたいだ。

「あらまあ女の仔なのに、ちょっぴり残念なお顔してるのね」
 私は笑った。言葉と裏腹、残念でも何でもなく、凄く愛らしくて頬擦りした。
「愛嬌があって可愛らしいでしょ? 幼稚園で保護された子猫は全部で三匹いたんですが、他の二匹はすぐ貰われてしまって、この仔が最後の仔なんです。でもなんでしたら、この仔でなくてもロビーのケージの中の子猫でもいいですよ」

 そう言われ、一瞬あの美しいパステルカラーの猫を思った。
 が、幼稚園に捨てられていた仔のうち、最後まで残ったという白黒八割れの雌の子猫を、私はもう胸に抱いていた。知らない人間に抱かれ、怯えて小さく震えている。確かな体温が愛おしい。
 大丈夫、ちゃんとお家に連れて帰ってあげるから。私は、小さな耳にキスした。
「これもご縁ですから、この仔にします」
 私は、マリンを譲り受けた時と同じようにそう答えていた。ほんの少しパステルカラーの美猫に未練を残しながら、しかしきっぱりと。

「この仔なら、先住さんともきっと仲良しになれますよ」
そう言うと、看護師さんは奥の診察室の方へ顔を向け、
「ご縁だから、幼稚園の仔でいいんですって!」と大声で呼びかけた。
すると奥から、院長先生が現れた。
「やあ、どうもありがとうございます。どうか、よろしく可愛がってやってくださいよ。良かったなお前」
 院長先生はふっくらとした手のひらで、八割れの小さな頭を包むようにして撫でた。

「検査してわかったんですが、お腹に虫がいるので、虫下しのお薬を出しますから、おうちで飲ませてあげてください。おい茜、カルテ作ってやって」
 と、さっきの看護師さんに言っている。どうやらふたりの雰囲気から察するに、受付の看護師さんは院長先生の奥様のようだ。
「それじゃ、これからカルテを作りますね。名前はどうしますか? あ、別に今じゃなくてもいいんですよ」
 名前? えっと……。

「あの、〝ごまちゃん〟で」
 すぐさま私が答えると、横にいた夫が、えっ? もう決めちゃったの? と、驚いているが異存はないというように微笑んでいる。ここへ来るまでに、モコとかココとか可愛らしい名前を思い描いていたが、どことなく笑える黒い点の付いた鼻を持つ子猫を見て咄嗟に浮かんだのだった。

「お鼻に黒ゴマみたいな模様が付いてるから、〝ごまちゃん〟で」
 もう一度、看護師さんで院長夫人の茜さんにそう伝えると、彼女は真新しいカルテと診察カードに、「柚原ごまちゃん」と書き記したのだった。

                           
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