「君の名は?」(岡山信愛教会 礼拝奨励)


2022年10月23日 
岡山信愛教会聖日礼拝 説教旨             
公益財団法人YMCAせとうち 太田直宏 

本日のお話の構成
起:古来よりの名前の話
承:聖書の世界の名前の話
転:名は体を表す
結:神ある人生か?神なしの人生か?

招きの言葉

わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。 あなたはわたしのほかに、なにものも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。

聖書 出エジプト記 第3章13~15節
3:13 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」3:15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

13 And Moses said unto God, Behold, when I come unto the children of Israel, and shall say unto them, The God of your fathers hath sent me unto you; and they shall say to me, What is his name? What shall I say unto them?14 And God said unto Moses, I AM THAT I AM: and he said, Thus shalt thou say unto the children of Israel, I AM hath sent me unto you. 15 And God said moreover unto Moses, Thus shalt thou say unto the children of Israel, Jehovah, the God of your fathers, the God of Abraham, the God of Isaac, and the God of Jacob, hath sent me unto you: this is my name forever, and this is my memorial unto all generations.

起:古来よりの名前の話
 最初にみなさんにお詫びせねばなりません。今日のお話のタイトルのことです。実はこれ、間違えていたのです。何が間違っていたのか。今日のお話の着地点はそこにあります。

「誰そ彼れと われをな問ひそ 長月(ながつき)の 
 露に濡れつつ 君待つわれそ(万葉集)」
そこにいるのは誰だと、私のことを問わないでください。
十月の雨に濡れつつ、あなたを待っている私なのです。

 おはようございます。改めまして「岡山信愛教会会員の太田直宏」と申します。6月5日にこの教会の仲間にしていただいて、4ヶ月になりました。あの時もっていた漠然とした不安な気持ちは薄れ、毎週の礼拝やそののち行われる説教討論会がとても待ち遠しく、改めて教会に連なる喜びを毎週噛み締めています。八谷牧師がおられないから申しますが、嬉しいことに牧師の説教には毎回良い意味で私の理解を超えるところに設定されています。加えてお話に連続性があること(すなわち、福音の本質が語られていること)で理解が深まっていることを感じています。また、終わった後のみんなでの議論にはハッとさせられる部分も多く、あの時間がまたとてもいいのだと感じています。そして翌週に配布される板野さんの要約も、適切な編集が加えられえており、毎回の楽しみとなっています。

 いずれにしましても今は、信愛丸というひとつの船に共に載せていただいているという自覚が日々新にされ、この教会で語られている「福音」をYMCAの仲間に伝えていく役割が私にはあるのだなあと思っています。そういう意味で本日は 名の仲間が集ってくれています。実は幼児期の先生の影響はとても大きいのです。三つ子の魂百まで。雀百まで踊り忘れず。以前にもお話しましたが、カトリック教会付属愛徳幼稚園で経験したことが、私の今を形作っています。ここにいる私の仲間たちは、多くの人の人生のスタートに深く関わっているのです。そこでの保育や絵本は、時にはその人の人生を決定づけるのです。その証拠を今日は持ってきました。

 1冊の本があります。「せかいでいちばんはじめのおはなし」1964年の作品です。この本の印象は鮮烈に私の心に残っています。ひとうひとつの絵もきれいなのです。みなさんにとって一週間は何曜日に始まりますか?この本の影響もあってか、私のカレンダーは、月曜日に始まっています。ところがどうもそうではないらしいことに最近気づきました。しかしながら、この本にはイラストとともに「最初の日曜日にかみさまは休んだ」と書かれているのです。ユダヤ教の伝統でいうと、お休みされたのは土曜日、そしてその日が安息日にされたというのが正しい理解だと最近になって知りました。そしてそれ以上に大きな影響を与えているのが、「なまえ」のこと。この本によれば、アダムとイブが全ての動物に名をつけたと書いているのです。だから私はなんだかずっとそのように信じていました。この本にはこんな風に書かれています。なかよくなるために名前はあるのだと。ところがまあ聖書にはそうなふうには書かれていないのです。では、折角ですからお名前を聴かせていただきましょう。What your name?May I have your name?英語で言えば、そんな感じでしょうか。

 それにしても名前って不思議です。現在日曜日のよる、絶賛放映中の鎌倉殿の13人。久々に毎週続けて見ています。多くの登場人物がありますが、みなさん「源義経(みなもと よしつね)」はご存知ですよね?源義経と聞いてピンとこない顔をする人もまれに見かけますが……。そんな人には「牛若丸(うしわかまる)」といえば「ああっ」と合点がいくかもしれません。そういえば「九郎判官(くろう ほうがん)」という別名も有名です。歴史人物の名前ってすごくややこしくて……。たぶん年号覚えるより、名前覚える方が大変だって人もいるでしょう。オレ、世界史の人物名よく分からないもん。なんで親子で同じ名前なの!? って、まあ、それはおいといて。実は日本人の名前も不思議がいっぱい、先程のように整理されたのは、最近です。

 昔の日本人の名前はたくさんの名前を持っていました。義経殿の例で言えば、幼い頃の名前である幼名が「牛若丸」。寺に預けられて「遮那王(しゃなおう)」という名前を貰っています。これは盧遮那仏がその由来。盧舎那(ルシャナ)・毘盧遮那(ビルシャナ)=いずれもサンスクリット語のヴァイローチャナの音訳で、光明があまねく照らすという意味の「光明遍照」と漢訳される、華厳経の教主のことです。​​その後元服して「義経」と名乗るようになります。ちなみにこの「義経」という名は諱(いみな)と言って、本来なら隠しておく名前でした。それは本当の名前=諱(いみな)を呼ぶとその人物を操れるという風習があったからだそうです。鎌倉時代では男の諱は秘匿される事はなくなったとはいえ、やっぱり目上の者以外が諱で呼びかけるのは無礼とされていました。だから、通常呼ぶ名前(通名)=字があります。義経殿の場合は「九郎」がそれ。そして出世して官職につくと、その官職名をつけて呼ばれます。現代でも「岸田総理」とか「森保監督」とか言いますよね? 義経殿は「判官」という検非違使の少尉(三等職)、今でいうところの警察官みたいな職についていたから、「九郎判官」と呼ばれたのです。ちなみに判官びいきという言葉はここから生まれています。そして、北条政子。実は彼女、自分のことを北条政子とは知らなかったのではと言われています。先程の諱、鎌倉時代には男性はあまり関係なくなったのだそうですが、女性の名前はまだまだ隠されていたらしく、尼御台の「北条政子」だって朝廷が尼御台に便宜上つけた名前で、尼御台自身は政子と名乗っていないどころか、自分が政子と呼ばれている事すら知らなかったはずです。つまり女性の本当の名前は、実の両親と夫しか知らないものだったのです。

承:聖書の世界の名前の話
 では、神さまは、なんという名前なのか?それが今日の聖書の箇所のテーマです。この出エジプト記3:14の「わたしはある。わたしはあるという者だ(英語では、I am who I am)」と言う言葉は、ヘブライ語では、「エヒイエ・アシェル・エヒイエ」と言う言葉だそうです。「エヒイエ」は、「ある、いる」を意味する「ハーヤー」の一人称単数未完了形。未完了形と言うのは、ヘブライ語独特の時制で、動作がまだ終わっておらず、引き続いていく状態を意味するそうです。神が「わたしはある(I am who I am)」と仰ったのは、「過去から存在して、未来永劫に存在する」と言う意味だと考えられます。

 聖書の神の名(主の名)、「ヤーウェ(Yahweh:hwhy)(アドナーイ)」は、ヘブライ語の「ある、いる、生きている」を意味する、「ハーヤー(hyx)」から派生したものと考えられています。読み方は、実はよくわかっていません。旧約の時代、神の名(主の名)を唱えることは、禁じられていたので、(YHWH)と記された部分は、「主」(アドナーイ)と発音していた為、正確な発音が、不明になってしまったそうです。それは、モーセの十戒(言葉)でこのように規定されていたからです。

あなたはあなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
主は、み名をみだりに唱えるものを、
罰しないでは置かないであろう。​​
​​You shall not take the name of Yahweh your God in vain, for Yahweh will not hold him guiltless who takes his name in vain.

バスの規則を作成するときに、どの言葉が適切かと考えなければならなくなりました。みなさんなら、どの表現を用いるでしょう?
①むやみに運転士に話しかけないでください。​​
②みだりに運転士に話しかけないでください。​​
③みだらに運転士に話しかけないでください。

『大辞林』によると、「むやみに」の意味は「①結果を考えずに行うこと。あとさきを考えずにすること。また、そのさま②度を超しているさま」とあります。一方、「みだりに」の意味は、「①(規制などを受けずに)勝手気ままなさま。ほしいまま②考えの浅いさま。思慮のないさま。無分別③『みだらに』に同じ④秩序のないさま。筋道の立たないさま。」とある。

 これでは、ニュアンスの差はよく分からりません。そこで冒頭の問題に戻るわけですが、「むやみに」と「みだりに」では、どちらが、話しかけることに対する規制の度合いが強いのでしょうか?これは、「みだりに」の方が強いのです。つまり、「みだりに」は「用がないのに、必要が無いのに」という意味ですがが、「むやみに」は「必要か不必要かというより、限度を超えてはいけない」という意味になる。平たくいうと、運転手と天気の話など世間話をすることは「むやみに」には当たらないが、「みだりに」には該当しそうです。そうだとするなら、乗客や通行者の安全を守るという目的に照らせば、正しい言葉遣いは「むやみに」ではなく「みだりに」のはずです。法律の世界での「みだりに」は、「法定の除外事由がないのに」と考えられています。であるならば、当時の人々はそう簡単に名前を呼ぶわけには​​いけなかったことがよくわかります。ハリーポッターの中で、言ってはいけない名前の人物が出ているのとよく似ています。彼は「例のあの人」と呼ばれる,ヴォルデモート卿(Lord Voldemort)のことですね。名前を呼ぶのも恐ろしい,というところから「例のあの人」と呼ばれるわけですが,これは英語だと "You-Know-Who" と表されます。​​アルク辞書をみると「例のあの人」「名前をはっきり言わなくても、話し手と聞き手が互いに知っている人」とあります。Collins英英辞書では、A person whose name one does not want to say, but who is known to the person to whom one is speaking とされています。

 この「YHWH」は、中世キリスト教では「エホバ(Jehovah)」と発音されたが、最近は「ヤーウェ(ヤハウェ:Yahweh)」と言う発音が正しいと言う説が多いようです。これと似た名前で、最近注目されているのがGAFAという言葉です。そして、現代の神は、ヤハゥエではなく、ガーファではないのかという論争です。GAFAはご存じのGoogle・Amazon・Facebook・Appleのことです。伝統のYHWHの人気の低下に比べて、GAFAの影響は日々大きくなるばかりです。なんたってGAFAは応えることに間髪がありません。瞬時に求めるものを提示してくれるため、今やひとりひとり自分の手元に携え、迷ったときにはGAFAに聴いて回答を得るのが当たり前になってしまいました。もしやこれこそがフォースなのか?そう思っている人も多いのではないでしょうか。Googleは多くの疑問に瞬時に応えてくれます。Appleの美しさは多くの人を魅了します。Facebookは考えられない数の人を繋ぎ集団を形成し、Amazonは欲しい物を願えばすぐに手に入れることができるのです、しかも翌日には。さんとすごいことでしょう。しかも今やそのインターフェースは、音声入力という言葉での祈りと変化してきています。例えばこんな風に「ヘイシリ、今何時ですか」「アレクサ、明日の天気は?」「OKグーグル、あなたの名前は」

 一方のYHWHといえば、求めても応えず、祈っても聴かれない。GAFAの存在感に比べて、今や圧倒的にその求心力は低回しているように見えます。多くのものはこのGAFAにひれ伏しています。ではGAFAとは何なのでしょうか?実はその正体はアルゴリズムなのです。プログラムなのです。要するに、それは人が生みだしたものなのです。それゆえいかようにも人の手で改変することができます。事実いま、さまざまな問題が起こっています。わたしたちは金の子牛にひれ伏しているのと変わらない状態に陥っているのです。
 
 長い歴史の中では、往々にしてそのようなことがあります。ユダヤ人たちの中にはホロコーストの後、 彼らの神が民を見捨てたことを恨み、信仰を棄てようとするものが相次いだそうです。彼らに向かって当時の哲学者エマニュエルレヴィナスはこう言いました。
「あなたがたは善行を行えば報償を与え、悪行を行えば懲罰を下す、そのような単純な神を信じていたのか。 だとしたら、あなたがたは「幼児の神」を天空に戴いていたことになる。だが、「成人の神」はそのようなものではない。「成人の神」とは、人間が人間に対して行ったすべての不正は、 いかなる天上的な介入も抜きで、人間の手で正さなければならないと考えるような 人間の成熟をこそ求める神だからである。もし、神がその威徳にふさわしいものであるとすれば、 神は人間に霊的成熟を求めるはずである。神の不在に耐え、 人間が人間に対して犯した罪の償いを神に委ねることをしない 成熟した人間を求めるはずである。」
例のあの人がお答えにならない理由が語られています。YHWHは、ご自分の姿に似せて我々を創造されたからです。つまり、そもそもわれわれは、生まれながらにして「自分の力で物事を判断し、解決する力を持つ、まるで例のあの人のように」そう、わたしたちは、YHWHの類比としての存在なのです。主客は明らかに転置されています。主こそがわたしたちを創ったのです。

転:名前は体を表す
 「ロメオ、ロメオ、あなたはどうしてロメオなの?」これは有名なロメオとジュリエットの一節。よくご存知なセリフかと思います。では、このあとにはどんなセリフが連なるかご存知でしょうか?バルコニーで二人が語り合うこのシーンは、二人が自分たち両家の運命を呪う場面なのです。セリフはこのように続きます。​​「あなたのお父さまを否定してください、そしてあなたの名前を拒否してくださいな。あるいは、もしもあなたがそうしたくないならば、ただ私の恋人と誓ってください。そうすれば、わたしはもうキャピュレットの1人であるのをやめますわ。ならば、私の敵なのは、あなたの名前だけ。あなたはあなた自身です、モンタギューの1人でなくても。名前って何?私たちがバラと呼ぶあれは、ほかのどんな名前になっても、同じように甘く香ることでしょう。」 
 名前には、大きな意味が関係ありません。その存在がなんと呼ばれたとしても、そのものの本質は変わらない。だからロメオ、その名を捨てて、私と一緒に歩んでください、この場所はそんな位置づけです。今一度、聖書に戻ります。新しい訳、聖書教会共同訳という聖書です。

[聖書協会共同訳]
 12 すると、神は言われた。「私はあなたと共にいる(エヘイェ・インマク)。これが、私があなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えることになる。」 13 モーセは神に言った。「御覧ください。今、私はイスラエルの人々のところに行って、『あなたがたの先祖の神が私をあなたがたに遣わされました』と言うつもりです。すると、彼らは『その名は何か』と私に問うでしょう。私は何と彼らに言いましょう。」 14 神はモーセに言われた。「私はいる(エヘイェ)、という者である。」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』(エヘイェ)という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。

 この箇所「わたしはある」という有名な神の名は、神が永遠の存在であることを示すものとして大切にされてきました。この訳は、使徒たちや初代教会が親しんでいた七十人訳ギリシア語旧約聖書の「エゴー・エイミ」という言葉に基づくものです。この度、聖書協会共同訳では、ヘブライ語の「エヘイェ」とその前後関係に注目し、「私はいる」と訳しました。ヘブライ語聖書ですぐ前の文脈を見ますと、「エヘイェ・インマク」(私はいる・あなたと共に)(3章12節)という神の言葉があります。モーセに現れた神は、アブラハム、イサク、ヤコブに現れて契約を結んだ神であり、その契約に従ってイスラエル人と共にいて、エジプトから導き出す神です。そのような文脈とヘブライ語の「エヘイェ」に注目し、この度の聖書協会共同訳では、従来とは違う「私はいる」という翻訳にしたのだそうです。神さまは、わたしたちが創ったのではなく、はじめから存在している、そこが大事です。 

 実にこれと同じことを、新約聖書のヨハネ伝で、イエスが、ユダヤ人の前で、 「わたしはある(I AM)」と、宣言しています。
ヨハネによる福音書08:58 イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」
John 08:58 (NKJV) Jesus said to them, "Most assuredly, I say to you, before Abraham was, I AM."
 この、「I AM」の部分のギリシャ語訳は、 「εγω ειμι (エゴ・エイミー:egw eimi:ejgw; eijmi)」です。 また、この、「I AM」の部分のラテン語訳は、「ego sum」です。 イエスが、「エゴ・エイミー(わたしはある)」と宣言された時、当時のユダヤ人たちや祭司たちは、イエスが、「自分は神である(私は、神のようにあってある者だ)」と宣言していると受け止め、反発したものと、思われます。みだりにその名を唱えているのではない。必要性があった。ご自身の証明のためにここで宣言されました。

ちなみにイエス・キリストってどういう意味かはご存知ですか?どちらが名字でどちらが字?それとも諱なのでしょうか?実はこれは名前ではなく、信仰の告白です。イエスこそ、主である、イエスは主なりと言っているのです。

結:神ある人生か?ない人生か?

実は昨日この教会でお泊り保育がありました。三歳から五歳までの30人がこの教室で眠っていたのです。私は泊まりはしませんでしたが、土曜日の朝ここに出勤し、みんなと少しの間時間を過ごし、最後に屋外で礼拝のお話の担当をさせていただきました。なぜここに無事過ごすことができたのか。それは神さまがみんなを護ってくれているからだよと。その印が十字架。ここは神さまのいるところだよっていうお話でした。思えば私もそうなのです。幼稚園の頃、読まれたあの本が、神の存在を受け入れる基礎となっていることは間違いありません。山から帰って来るときに、幾人かのこどもたちが保護者の方々とともに、お庭で十字架を眺めていました。この経験が、こどもたちの人生の基礎となってくれればうれしいなと思う出来事でした。クリスマスイブには教会にきてねというお誘いも、きんちゃんリーダーがしてくれていました。今年のクリスマスが楽しみですね。ご存知のように、YMCAにはリーダーネーム、いわゆるニックネームがあって、もしかするとその名前のほうが知られていたりします。本名を知られていなかったりすることが往々にしてあるのです。そして残念ながら、そのこどもたちは大きくなると、ほぼその名前は忘れ去られてしまうかもしれませんす。けれども確実にそこには彼女たちの存在があった、神さまとともにそこに存在した、そのように意味づけることができる大切な仕事を担っている仲間たちです。

最後に今日はあえて、そのみなさんに問います。
あなたはどちらを選びますか?

一冊の絵本を読ませていただきます。五味太郎さん「もう一度そのことを」

この絵本の内容紹介あらすじ
目に見えないものなのに、どこかにいる気配がする。
冬の凛とした空気の中に。何げない日常の暮らしの中に。
それは履き慣れたスニーカーの中かもしれないし、とっくりセーターの編み目の中かもしれない。葉っぱをつたうひとしずくの水の中にかもしれない……。
とりたてて気にするようなことではないけれども、
なぜかクリスマスが、いえ、日常がいとおしくなります。

人生は旅であり、旅とは人生である。人生は賭けであり、賭けとは人生である。

「神は存在するか、しないか。きみはどちらに賭ける?― いや、どちらかを選べということがまちがっている。正しいのは賭けないことだ。― そう。だが、賭けなければならない。君は船に乗り込んでいるのだから。」すでにこの世に生きている以上、この勝負を降りることはできない。賭けないということ自体が結果的に一つの選択となるからだ。賭け金は「自分の人生」である。
神が存在するという方に賭けたとしよう。勝てば君は永遠の生命と無限に続く喜びを得ることになる。しかも、君の人生は意味あるものとなるだろう。賭けに負けたとしても、失うのものは何もない。
反対に、神は存在しないという方に賭けたとしよう。その場合、たとえ賭けに勝っても、君の儲けは現世の幸福だけである。死後は虚無とみなすわけだから、そこで得るものは何もない。逆に負けたとき、損失はあまりに大きい。来世の幸福をすべて失うことになるからである。
はじめて『パンセ』のこの断章を読んだとき、正直当惑した。逃げ道はふさがれている。賭けるしかない。しかも、理屈から言えば、どちらに賭けるべきかは明かではないか。しかし、たとえ頭ではそう理解しても、人はそれほど簡単に賭けに踏み切れるわけではないようだ。パスカルも言うように、信仰に近づくためには「理性を行使」しなければならない。しかもその上で、「理性を超えるものが無限にある」ことを認め、心で信仰を受け入れることが必要である。なぜなら「神を感じるのは心情であって理性ではない。信仰とはそのようなものである」からだ。理性が納得し、心情が同意するためには時間がかかる。そのためには人との出会いと導きも必要である。実際に、信仰は人から人へと直接に伝えられ教えられるものであって、導き手のないまま人は信じることはできません。けれども大丈夫です。ここには素晴らしい導き手がいます。ぜひともともに神のある人生を歩む決断をしてください。  

 冒頭のタイトル、間違えていたというのは、末尾が?(はて)なになっていたからです。でも実際は句点にせねばなりませんでした。それは、「疑問」の余地のない「確信」だから、というもの。劇中、「君の名は?」と何度も問いかけるシーンがあります。しかし、「私たちは、会えば絶対、すぐにわかる」という台詞もあるように、最後は、すでに名前を知っています。君の名前に、確信を持っている。これが、疑問系の余地を残した『君の名は』ではなく、『君の名は。』にするべき理由でした。ちなみの英語版のタイトルは「What’ your name?」ではなく、「Your name.」になっているのも、恐らくそうした意図があったから。

祈り:
主なる神は、土の塵で人を形づくり、 その鼻に命の息を吹き入れられた。 人はこうして生きる者となった。
主なる神は人に呼びかけて言われた、 「あなたはどこにいるのか」。(創世記2:7.3.9より)
わたしたちも呼ばれています。 「あなたはどこにいるのか」と。一緒に祈りをささげましょう。神さま、わたしはここにいます。 あなたの命の息で、 わたしたちを生かしてください。イエスのみ名によって アーメン。


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