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本当のところはわからない

道を歩いていると、子供たちが空き地の斜面を掘り返しているところを見た。それぞれ思い思いの道具で一心不乱に掘っている。まさかアサリが獲れるわけでもないだろうから、特に目的はなく、穴を掘る行為自体が楽しいのだろう。そういえば自分も昔こんなことやってたなあと、なんだか嬉しい気分になる。

そこで、いや待てよ、と思った。実際はどうなのかわからないぞ。得てしてこういう状況のときは、大人と子供の気持ちの間に温度差があることが多いのだ。大人が勝手に自分の理想の子供像を当てはめて、一人で気分良くなっているだけのことが多々あるのである。

小学生のとき、時々体育館で映画を観る会が開催された。上映される作品は健全をフィルム状にして映写機にかけたような、剥き出しの教訓を顔面に擦りつけてくるタイプのもので、正直子供心にだいぶ退屈だった。

鑑賞後は教室で感想文を書かされる。素直に自分の気持ちを書くとすれば、「とにかく退屈でした」とか「早く終わってほしかったです」とか「『グレムリン』がよかったです」とかになるのだが、それをそのまま書いてはいけないことくらいはわかる。

だから、多分こんな感じのことを書くべきなんだろうな、と想像して、思ってもいないことを書くことになる。とにかく文字数を稼ぐべく、ひたすら耳触りのいいフレーズを機械的に並べていくのだ。気分はロボットである。ロボットに気分があるのかは知らないが。結果、分量だけは一丁前の嘘まみれの文章が出来上がる。

そうして完成した怪文書だが、教師や親にはめっぽう評判がよかった。理想的な感想を持ってくれたのが嬉しかったのだろう。よっしゃ、響いとる響いとる、くらいに思ったのかもしれない。いい感想だと褒められるたびに僕は、嘘を書いたらこんなに喜ばれるんだな、と醒めた気分になった。

もしここで「お前本当にこんなこと思ったのか?」とか言ってくれる大人がいたら、その人のことを大好きになっただろう。わかってくれる人がいるんだ、と嬉しくなったと思う。せめて「なんか立派なこと書いとるな、おい」くらいに茶化してくれる人がいたら。かなり気が楽になったはずである。

穴を掘る子供たちを見て、そんなことを思い出していた。僕はまんまと「子供らしいなあ!」と微笑ましく思ってしまったが、それはあくまでこちらの身勝手な感想だ。彼らにとっては「こういうのがお好きなんでしょ?」というパフォーマンスだったかもしれない。僕が通り過ぎたあと、「お疲れした〜!」と、ブタメンとコーラで乾杯したのかもしれないのである。

もちろん現実的に考えるとその可能性は低い。通りすがりの僕相手にパフォーマンスをかます意味がわからないし、普通に穴掘りに没頭していたと考える方が自然だ。だが、可能性は低いがゼロではない。ゼロではないのだ。そのことをちゃんと忘れないようにしないとな、と、歩きながら僕は思った。


ところで、この文章は僕の本当の気持ちを書いているのだろうか?

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