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上野公園で歴史を感じる

清水観音堂

上野の山に現存する最古の建造物が清水観音堂。眼下に不忍池を望む高台に建ち、歌川広重の浮世絵「名所江戸百景」にも登場している。

御本尊は千手観音菩薩。もともと京都の清水寺に安置されていたものを譲り受けたもの。普段はお目にかかることはできないが、毎年2月最初の午の日に行われる「初午法要」の縁日に限り、御開帳されるらしい。
この日だけというのは、逸話に由来する。日頃からこの観音様を進行していた平家の武将・平盛久が鎌倉の由比ヶ浜で首を斬られようとした時に、盛久めがけて振り下ろされた刀が突然折れて、命が助かったという。この出来事が起きたのが午の年の午の日、午の刻であったことから、初午の日が特別な日となったそう。

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本堂から見下ろすと、目の前には不忍池を望む開放感あふれる風景が広がる。本当前が上野の山の斜面に向かってせり出すようになっていて、とても見晴らしがいい。これは京都の清水寺にならって舞台造りを採用しているからだそう。
御本尊も清水寺にゆかりがあるが、建物の造りも同じ。寛永寺を江戸庶民の祈りの場や憩いの場にもしたいと考えた天海大僧正は、上野の山を比叡山に、不忍池を琵琶湖にという具合に、比叡山と周辺の名所に見立てて寛永寺を形作っていったそうだ。そういした計画のもと、清水観音堂は京都の清水寺に見立てられ、1631年に建立された。

二代目の月の松

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舞台正面真ん中には、歌川広重の浮世絵にも印象的に書かれていた「月の松」が植えられている。初代・月の松は明治時代に台風で失われ、現在あるものは2012年12月に復元された2代目。江戸の植木職人が趣向を凝らし、松の枝を曲げて月をかたどった姿は、当時も粋な江戸っ子の間で話題となったに違いない。舞台から「月の松」越しに不忍池に浮かぶ弁天堂を望むと、同じ光景を江戸の人たちも見ていたのかもしれないと思えて趣がある。

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あらためてこの絵を見ると当時を想像させる。

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上野大仏

大都会の東京上野、この場所にも大仏がいた。落ちないというご利益から合格祈願で訪れる受験生が多いことが特徴の対物。
上野大仏は1631年に越後村上藩主である堀直寄が戦死者慰霊のために作った釈迦如来坐像のこと。上野公園内の寺院、東叡山寛永寺に鎮座しており、漆喰で作られている。奈良の大仏像は約18m、鎌倉の大仏像は約11mなのでこの二つと比較すると、約6m小ぶりではあります。

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顔だけのレリーフが残ったというのは、今までの歴史の中で様々な困難を乗り越えた証とも。その強く残った歴史を称賛するように多くの参拝客が訪れています。上野大仏は、1647年に一度自身で倒壊しましたが、1658年から1661年に金銅像という名前で再び造られました。その後も火災や大地震など度重なる自然災害によって体の一部や頭部が破損し、何度も修復されました。1923年の関東大震災ではついに頭部が落下し、第二次世界大戦によって体の部分を失ってしまいます。
体の部分をなくした大仏は顔面部分のみがレリーフとして現在保存。これ以上落ちないという意味で今や合格祈願に訪れる受験生の参拝が多くあります。現在では薬師仏を祀っているパゴダ様式の祈願塔と志納所がともに併設されるようになった。

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パゴダ薬師堂

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パゴダ薬師堂にくれば、上野大仏で合格祈願・仕事成功・努力結実を願い、薬師瑠璃光如来に、健康祈願・病気平癒・健康長寿・疫病退散と願うことができ、ここだけである程度、願いは叶ってしまうのではないか。
受験生もそう、世間のビジネスマンも、老若男女がここで手を合わせるような場所が上野公園にあったとは。

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