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一長一短と向き不向きの話

たとえば、自分の好きなものに対して100%全部が好きかと問われれば、5%や10%は嫌いとまでは言わずとも、快く思わないことはあるものだと思う。

ものごとには何においても一長一短がある。

自分にとっての長が短を上回れば好きという感情になり、その逆が嫌いと言い換えられるかもしれない。

最近のぼくでいうと、突然ランニングすることに目覚めた。
高校の友人がリレーマラソンに誘ってくれたことに端を発するのだが、そもそも万年運動不足だったぼくはランニングに対しては圧倒的に短の気持ちが強かった。

短の理由としては
・疲れる
・面倒くさい
・球技ならともかくただ走ることに喜びを感じない
などなど、最後のは少し言い過ぎだがランニングをしない人にとってはおおよそ当てはまる理由ではないかと思われる。

しかし、今現在はそんなランニングにハマっている。
ぼくの仮説で言えば長が短を上回ったことになる。

長の理由を考えてみると
・体力がつく
・運動不足の解消
・四十肩がやわらぐ(五十肩の説もある)
・体が柔らかくなる(ストレッチをするから)
・時間の感覚が身につく
・生活リズムが整う
・根性、忍耐力がつく
・考えごとをなくせる
・スマホを強制的に見なくなる
・体育会系を嫌じゃなくなる
・挨拶など元気に言える
・社会の人の暮らしが見える(普段在宅ワークだから)
・仲間ができる
・自分と向き合える
・人のせいにしなくなる
・数字上は成長を可視化できる
などなど、ざっと思いついただけでも思った以上に長があった。

文字量だけでも長と短の違いは明らかである。
しかし単に文字量だけの問題で片付けてはならない。

なぜなら短の「疲れる」について「なぜ疲れるのか?」を深掘りすれば、「体力がない」「歩くだけでもしんどい」「頭が疲れているのに体まで疲れたくない」など文字量を稼ぐことはできてしまうからだ。

細かい話は置いておいて、大事なのは「短の理由を端折ってでも長のことを考えるほうが楽しい」という事実である。

まだ何が言いたいか伝わりづらいが、こういうまどろっこしいことを考える行為自体が「好き」という感情そのものだということ。

好きじゃないと深く考えることはない、という至極当然の話である。

少し角度を変えるが、好きの延長線上に趣味が鎮座している気がする。
好きから趣味になる決め手のひとつに向き不向きがあると思う。

好きなものが自分に向いているとは必ずしも限らないのは世のことわり。

好きな人がいたとしてその人の性格が必ずしも自分に合うとは限らない、といったたとえが一番しっくりくるのではないか。

このように、好きになったものがその後趣味として定着するかというのは、自分とそのものごととの相性によって変わるのだと思う。

詰まるところ自分の中では割と「鬼教官」「ドSの権化」みたいな性格に思えていたランニングにハマったということは、自分自身が「仏教習生」「ドMの権化」と定義づければ相性がよかったと結論づけられる。

人生自体が長距離走のようなものと捉えれば、ランニングは万人が好きになり得るものかもしれないなぁと仏教習生は思った次第である。

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