【小説】ザザンとガガンと鬼の指
雪の残る春だった。底冷えのする短い夏が終わると、実りの無い秋が来た。蓄えてあった僅かな米も、痩せた粟や稗も、蛙も蛇も虫もみな食べ尽くしてしまった。秋が深まるにつれ、人は徐々に人であることを辞めていった。細く流れる川は秋の陽をきらきらと反射して、その傍らでは牛や馬が殺され、食われた。牛や馬が人に代わっていくのにさほど時間はかからなかった。床に伏せる老人の足を引き擦り、母親の腕から乳飲み子を奪う。目ばかりギョロギョロと大きな者達が鍬や鋤を片手にススキの揺れる道をふらふらとさ迷い歩いた。
兄弟は村の外れの小さな家に母親と三人で暮らしていた。母親の病は重く、何ヶ月も起き上がることさえなかった。兄弟は既に生きることを諦めていた。直にこの家の扉を叩く者があるだろう。その時はせめて母親と兄弟と寄り添って最期を迎えようと決めていた。
兄弟は双子で、数えで十である。本来なら間引かれるところだが、当時は家にも村にも蓄えがあり、また実家が裕福であったため、二人とも手元に置いて育てることが出来たのだった。
その裕福な家も没落し、夫を流行り病で亡くすと、自分もまた夫と同じ病に倒れた。
そんな母親の目は落ち窪み、頬は枯葉のように水気を失っていたが、胸元はまだ微かに上下している。兄弟は体を寄せ合って、おっかぁ、と呼びかけながら頬に手を滑らせた。
その瞬間、閉じられていた瞼がぐわっと見開かれた。驚いた兄が手を引こうとする間も無く、母親は兄の人差し指を噛み千切った。
溢れる血をもう片手でぎゅっと握りしめて、兄弟はこけつまろびつ外へ出た。そのまま山の斜面を駆け上げると、兄弟の姿は鬱蒼とした竹林の奥へ消えた。
枯れ木が倒れるような乾いた音が辺りに響く。家の扉は複数の鍬によってあっという間に破壊された。だが兄弟達がその音を聞くことはなかった。溢れる血の熱さ、匂い、耳元で唸る風が全てを消し去っていたからだ。
どれくらい走ったかわからない。遊び場にしていた巨木を過ぎ、谷川を渡り、山の頂上に至るとようやく足を止めた。兄の両手は真っ赤に染まっている。ずっと強く握り締めていたため、幸いにも血は止まっているようだった。兄は着物の裾を裂いて指に巻きつけると、自分達が来た方向を振り返った。
耳を済ませてみるけれど、誰かが追いかけてくるような足音も声もしない。
顔を見合わせ、弟と二人また歩き出した。太陽はまだ高く、白っぽい光を地表に向けて控えめに投げかけている。山の上を雲の影がのったり横切った。
他の村へ行けば何か食べるものがあるかもしれない。こんな子供二人に恵んでくれるとも思えないが、戻るよりは良いだろう。
山を二つ越えたところで空に夜の薄墨が滲み始めた。砂粒のような一番星を見つけると、兄弟は倒木の陰に重なるようにして眠ろうとした。
獣の気配がする。どこかで狼の遠吠えも。ここで死ぬのだろうか。一度は当たり前に受け入れたはずの死が、ここにきて急に恐ろしくなった。血の匂いを撒き散らす自分達は格好の的ではないか。濃くなる気配に、兄は弟の頬を叩いて起こした。
何も履かずに飛び出した二人の足は血と泥に汚れている。兄は弟をおぶって、もう少しだけ行ってみることにした。焦げ臭い煙の匂いが風に乗って届く。近くに集落があるのは間違いないはずだ。見つからないようにどこかの厩の隅にでも隠れることが出来れば――。
川沿いに、森の中をもう半刻ほど歩いただろうか。確かにそこには集落があった。そして人の気配も……あまり近づかない方が良さそうである。兄は集落の外れにある粗末な小屋に近づいた。生き物の気配は無く、か細い月明かりを頼りに窓から中を覗き込む。誰もいない。鼠一匹見当たらない。暗闇に慣れた兄の目は家の中に綿入れと草履が転がっているのを見つけた。
簡素な木の扉を押し開けて中に入る。草履も綿入れも二人には少しずつ大きかった。外の水甕で顔と手と足を洗い、落ちていた手ぬぐいを懐に押し込んだ。厨からいくつか刃こぼれした包丁を見つけると、腰紐に挟んだ。
星は無造作に撒かれた砂粒のように空でいつまでも輝いていた。村の中心では何を燃やしているのかは知らないが、一筋の煙が風の無い夜を真っ直ぐに昇っていった。
空っぽの厩で一晩を明かすと、また兄弟達は森の中へ分け入った。幾つかの集落を遠巻きにして、二人はとにかく人には近づかぬようにしようと心に決めた。草履を履いた足に、自分達が着ていた着物を裂いて巻きつけて固定した。兄の指先は赤黒く腫れあがり熱を持っているが、ちらちらと舞い始めた雪がその熱を少しずつ奪っていった。
幾つの夜を越え、幾つの朝を迎えただろう。荒れ果てた集落で着物や草履を取替え、包丁を見繕い、蛇や鼠を捕まえては裂いて食った。川で小さな蟹や魚もあるだけ食べた。何も無い時は水を飲んだ。それでも、こらえようの無い空腹は癒えなかった。
雪が山を覆い隠した。先ほど見つけた無人の村で二人は丈夫な藁沓に履き替えていたが、溶けた雪が隙間から染みて二人の素足をじわりじわりと凍らせていく。乾いた喉を雪で湿らせて、また何度目かの夜を迎えた。食べ物を分けてくれそうな集落はどこにも見つからなかった。
どっしりと重たい雲が山にのしかかり、何日も何日も静かに雪を降らせていた。兄の指は腐って先は黒く変色し、感覚も失われてしまった。それでもまだ生きている。
夜の手が兄弟の足を掴もうかという時に、二人は大きな洞窟を見つけた。竹で出来た戸が立てかけられている。ということは、中にいるのは熊ではない。腹を空かせた熊も怖いが、人間も同じように怖い。兄弟は腰紐に挟んだ包丁を手に持ち、息を殺して洞窟の奥を覗き込んだ。
ぽっかりと闇がわだかまり、物音一つ聞こえない。熊の寝息も、人間の息遣いも、何も。じいいっと目を凝らすと、奥に大きな鍋が見えた。やはり誰かが使っている、だが今はいない。いつここの主が帰ってくるかはわからない。今にも背後から足音が聞こえてくるかもしれないのだ。
それでも兄弟は吹雪に背中を押されるようにして洞窟に足を踏み入れた。自然と口に涎が溢れ、舌がじんと痺れた。鍋の中に、何かある。その匂いを鼻より先に体が感じ取った。
よろけながら駆け寄ると、鍋の底に肉の切れ端が白い脂と共にこびりついていた。二人は指で、爪で、その滓をこそげて口に入れた。途端、臓腑が裏返しになるような強烈な吐き気に襲われた。長いこと空っぽだった胃が、食べ物を受け付けなくなっていたのだ。
吐いてたまるか。吐いてたまるか。食え、食え、全て己の血肉にするのだ。口を両手で覆い、転げまわって、痙攣する痛みにただじっと耐えた。
どれくらいそうしていたかわからない。兄が先にふと目を覚ました。体は絞られた雑巾のようだし、ツンとせり上がってきた吐瀉物の酸っぱい匂いがしていた。頬を雪混じりの冷たい風が撫でる。
雪……
先ほど、洞窟の入り口は塞いだだろうか。鍋を見て一目散に駆け出したような気がするし、覚えていない。きっとそうなのだろう。だからこんなに寒いのだ。全身が押さえつけられたように動かない。ああ自分達はここで死ぬのだなと、精一杯首だけを動かして弟の姿を探した。
弟の足が離れたところにある。手を伸ばしても届かない。どうせ腕なんてもう動かせないのだけど、せめて名前を呼ぼうと冷たい息を吸い込んだ。
何かいる。
洞窟の入り口に立ち、こちらを見ている何かがいる。視界が吹雪のように霞んで見えなくなっていく。大きな藁沓が、一歩一歩踏みしめるようにこちらへ近づいてきた。生臭い匂いがむわっと鼻についた。
巨大な影が自分の顔を覗き込んでいる。毛皮を羽織った大きな体に、油皿のようにギラギラと丸い巨大な目。口は蝦蟇蛙のように大きく裂け、頭には牛に似た太い角が生えている。感情の見えないお面のような顔が眼前に迫ってきていた。
吹雪が全ての感覚を奪い、兄はぶつりと気を失った。
腕を揺する誰かの声に兄は重たい瞼を開いた。弟が不安げな顔で自分を呼んでいる。
身を起こすとやはりあの薄暗い洞窟の中だった。一度死の縁まで辿りついた者が見る幻覚だったのだろうか、あれは。朧な記憶を手繰り寄せ、まるで絵巻物の鬼のような姿を思い出して身震いする。
弟に、お前は鬼を見たかと聞いた。弟は先ほど目を覚ましたばかりで、自分達がどれくらい眠っていたのかすらわからなかった。洞窟の入り口から漏れる明るい日差しから、昼頃であろうと見当をつける。大きな鍋の中身は空っぽだった。それを見た二人の腹が、ぐぅと大きく唸った。
洞窟から顔だけ出すと、一面の銀世界が光を反射して二人の目をちりちり焼いた。目を覆って周囲の様子を伺うが、鳥の声や枝から雪が落ちる重たい音以外は何も聞こえない。自分達がどちらから来たのかもよくわからないし、今晩も吹雪くだろう。暫くはここで身を隠していた方がいいかもしれない。昨日は暗くて気がつかなかったが奥に火打ち石も薪もあるようだ、凍えて死ぬことはなさそうだ。
消し壷の中を覗くと流石に火のついた状態の炭は無かったが、仄かに温かいような気がした。気のせいだろうか。
照り返す光に目を慣らしてから二人はそろそろと洞窟を這い出た。慎重に辺りを伺うが、長閑な鳥の声と雪を巻き上げる風音以外は何も聞こえない。いや、どこかで水の流れる音がする。近くに川があるのだ。魚もいるかもしれない、と二人はそちらへ向かって歩き出す。藁沓がまっさらな雪原に二人分の足跡を作った。雪の表面には陽光に溶かされて固まった氷の膜が張っていて、藁沓で踏むとバリバリ割れた。
洞窟の北側に低い崖があり、見下ろすと幅五尺程の細い川が流れている。魚がいるかどうかはわからない。辺りを見回すと剥き出しになった木の根がだらりと下がっていて、それを使えば下りられそうだった。二人は力の入らない手で木の根を掴むと、ほとんど滑り落ちるようにして川岸に尻をついた。頬や額にぱらぱらと雪がまぶされて、熱ですぐに溶けて水になる。水は二人の頬や首元を濡らした。綿入れの袖で力なく拭い立ち上がろうとするが。目眩がしてしばらく動けなかった。
ふと、重たい足音が聞こえて、二人は息を潜めた。獣の足音ではない。それは徐々に大きくなり、こちらに近づいてきている。
ザンガ ザンガ ザンガ
固い雪の表面を、巨大な藁沓が踏みしめる。ザンガ、ザンガ、ザンガと音を立てて。森の奥から現れたそれは赤らんだ顔と牛のような角を持つ巨体の鬼だった。黒い毛皮を肩にかけている――熊だろう。腰蓑をつけて、片手には包丁を、もう片手には鹿の首を掴んでいる。どちらにも血はついていないし、あの金気臭い匂いもしなかった。ただ眠っているような鹿の顔は安からに瞼を閉じて、夢を見ているようですらあった。
鬼は兄弟から離れた川下に座り込むと持っていた包丁で一息に首を落とした。真っ白い雪の上で鹿の血が湯気を上げ、雪の表面を溶かして染める。むわっと漂ってきたその匂いに痛みと記憶が甦った。血走った母の両目に、先端を失った己の人差し指。生臭い匂いに傷がじくじくと悲鳴を上げた。
角の無い鹿の首は、何をされたのかわかっていないように穏やかに目を閉じている。その眼前で鹿の体は手際よく解体されていった。汚れた包丁を時折川に沈めてごしごし擦ってはまた皮と肉の間に刃先をあてる。腸は川にそのまま流した。美しい斑点を持つ滑らかな毛皮に雪玉を擦り付け汚れを落とし、手頃な枝に干すように引っ掛けた。肉の塊は白い骨と赤い肉に分けられ、岸に置かれたゴザの上に綺麗に並べられていく。全ての作業が終わる頃には陽が傾き始めていた。兄弟は空腹も忘れ、その淡々とした鬼の動きをじっと息を殺して眺めていた。
兄も、そして弟も、うっすら感じていたことがある。あの鬼は多分自分達を認識していない。解体の合間に何度か顔を上げたことがあった。顔についた汚れを拭ったり、姿勢を変える時に、自分達の……特に兄の赤い綿入れは視界に入ったはずだ。眼が見えていないわけでもないだろう。だが、鬼が自分達を追い掛け回すようなことはなかった。家の中になんだか小さな虫がいるな、という程度の無関心さだった。
かといって周囲をうろついて邪魔をすればどうなるかわからない。無害な虫でも耳の近くをブンブン飛べば鬱陶しいものだし、そうなれば容赦なく叩き潰される。大きな音を立てず、邪魔をせず、なるべくじっとしていよう。そうすれば危険を冒してどこか別の隠れ家を探す必要も無いのだ。もしかしたら気が変わって自分達まであの鹿のようになるかもしれない……、としても。
鬼はゴザで包んだ肉を両手に抱え、兄弟のいる崖の近くまでやってきた。ザンガ、ザンガと固い雪の表面を割って、十尺ほどの高さの崖を軽々と飛び越えた。鬼の背丈もほぼ同じくらいである。そして、やはりこれだけ近づいても鬼はこちらを一瞥もしなかった。滴った血が雪と二人を汚した。
少し待っていれば、あの鬼が寝静まった後に肉が食べられるかもしれない。鹿の首と共に兄弟は川のせせらぎをじっと聞いていた。
結論から言うとザンガは寝静まらなかった。ザンガとはあの鬼に兄弟がつけた名前である。雪を踏みしめて歩く足音からそう呼ぶことにした。なんとなく、二人が教わった鬼とは違うような気がしたからだ。鬼は恐ろしく強く無慈悲で、人間を見つけると取って食うのだと寺の和尚に散々脅されたものだが。
日が落ちるより早く吹雪が山を襲った。その前に兄弟が洞窟に戻ると、ザンガは火を起こして鍋に切った肉と雪を入れているところだった。雪が溶けて肉が徐々に白っぽくなって、鍋がふつふつと沸いてくる。溢れる涎を何度も何度も飲み込んで、ザンガの食事の邪魔をしないよう、思わずふらふらと鍋に近寄ってしまわないよう、二人は互いの腕をぎゅっときつく掴んでいなければならなかった。
やがてザンガは大きな木彫りのお椀を取り出して鍋の中身をよそい、竹の箸で黙々と肉を食い始めた。鬼とは生きたままの人間や動物をそのまま頭からバリバリ食べてしまうのだぞと自分達に語って聞かせた和尚に、鬼も人間と同じように食事をするのだと教えてやりたかった。村の男達に殺されて食べられてしまった今となっては詮無いことである。
食事を終えたらしいザンガは今度は藁を取り出して木槌でトントントンと打ち始めた。枯草と土の匂いが鼻をくすぐり、くしゃみが出そうになる。したところで、それでザンガが自分達を襲うとは思えなかったのだが、何をするにも全く声を出さずに静かに暮らすザンガの生活を邪魔してはいけない、そんな気持ちになっていたのだ。
しかし、鍋は依然としてザンガの横にあり、それを失敬すれば流石にザンガも何か反応をするのではないかと思うとどうにも二の足を踏んでしまう。腹は減る、涎で体が乾きそうだ、だが鍋はザンガの目と鼻の先である。
気がつくと弟がもう鍋に手を突っ込んでいた。ハッとした兄がすぐにその腕を掴んだが、弟はまだあたたかい鹿の肉の残りを口に詰め込んでいた。鍋の縁に手をかけ、もっと、と顔を近づける。
途端、鍋がひっくり返って、洞窟内に騒々しい金属音が反響した。
ザンガは藁を打っていた手を止めた。丸い目玉は手のひらをいっぱいに広げたくらいに大きくて、それが消えかけた焚き火を映してゆらゆら揺れた。木槌を手にしたまま、ザンガはゆっくり立ち上がる。
そして――、鍋を戻し、火の様子を確かめると、再びザンガはどっかりと胡坐をかいた。トントントントントントン……藁を打つ音は朝まで止むことは無かった。
二人はザンガを恐れなくなっていった。ザンガの方から兄弟に直接施しをすることはなかったが、ザンガの生活に静かに寄り添っている分には命の危険は無いと判断したのである。冬眠し損ねた熊や空腹の狼や人間がうろうろしている外の世界に出て行くほうがずっと危険であったし、ザンガの近くにいれば誰かや何かに襲われる心配もなかったのである。
ザンガはよく森へ入っては様々な獣を手に川原へ戻ってきた。そこで肉と骨と皮に分け、骨と皮はほとんどの場合興味を示さなかった。毛皮は枝に、骨は川原に積み上げたままである。いつのまにかなくなっているところを見ると、僅かに残った血や肉の匂いにつられて獣が持っていってるのだろうと二人は考えた。ならば自分達が貰っても構わないはずだ。兄弟は手頃な毛皮を羽織ったり洞窟の隅に敷いて寝床にしたが、やはりザンガはそれを見ても何の反応もしなかった。最初は獣臭くて鼻を摘んだものだが、ほどなくしてそれにも慣れてしまった。
ザンガの食事のおこぼれに助けられたお陰で絶え間ない空腹感も薄れた。自分達でも何か狩ってくることは出来ないだろうかと、鹿の大腿骨を持って兎や狐を追い回したこともある。成果はいずれも芳しくなかった。彼らはみな兄弟を嘲笑うように止まっては逃げジグザグに走り回り、何度雪の中に頭を突っ込んだか知れない。そうなってくると不思議なのはザンガの狩りだ。
森の中へ入っていくザンガの背を見送って、兄は弟に問う。不思議だと思わないか、あれだけの大きな体が走り回ればもっと大きな音がしそうなものなのに、ザンガはいつも静かに森へ入って静かに森から出てくる。手にはいつも傷一つない獲物がある。罠でも仕掛けているのだろうか。弟は答えた。わからない。だけど、傷も音もなく獲物を捕まえる罠があるとするなら、森に入るのは危ないのではないか。そう兄を牽制した。兄は、ザンガの後をついて行こうとしているのだ。
このままでいいじゃないか。ザンガの狩りの仕方を見たところで、自分達に真似出来るわけがないのだから。黙って待っていれば飢えることもないのだから。
その通りだ。けど、兄は自分の中に湧き上がる衝動を抑え切れなかった。そういう時に決まって失った指先が酷く痛むのだった。黒ずんで腐った傷痕からは失われたはずの爪が歪んだまま伸びてこようとしている。それが伸びて痛むのか、それともあの日の記憶が痛みを忘れさせまいとしているのか。
何にせよ、兄はザンガの足跡を辿っていくことにした。大股で大きなザンガの足跡は深い雪山でも見失うことはないし、足跡を辿れば罠にかかることもない。弟は迷ったが、結局兄の後ろを着いてゆくことにした。
ザンガがいつも歩く道が獣道となり、鬱蒼と茂った木々の合間にもそこだけは陽の光が届いていた。後を追うのは簡単だった。
ぽっかりと円形に拓けた広場に出ると、ザンガはその中心にだらりと両手を下げて立っていた。罠を仕掛けているでも、縄や包丁を構えるでもない。二人は木の陰からザンガの様子をじっと伺っていた。
何かが起ころうとしている。
やがてザンガは口元に両手を添えると、ホォォウ! ホォォウ! ホォォォォォー……と大きく長く鳴いた。ザンガの声を聞いたのはこれが初めてだった。いや、初めてではない。時折山の方から聞こえてきていた鳥か獣のような声はザンガのものだったのだ。声が余韻を残して森全体に響き渡ると、兄弟の背後から、左右から、ざわざわとした気配が近づいてくることに気づいた。
広場の周りを、動物達が囲んでいた。冬眠しているはずの熊や、その横に兎や鹿もいる。互いに干渉しあわずに、中心にいるザンガを見ている。風が雪を巻き上げて、ザンガの頭に、動物達の毛皮に、自分達の肩や背中に貼りついた。
やがて一匹の狐がザンガの前に進み出た。わずかに足を引きずっているその狐は散々兄弟を翻弄し嘲笑ったあの狐だった。兄弟の振り回す骨や木や竹の、ほんの一寸先を掠めて逃げるあの狐に違いなかった。狐はザンガの前に来ると頭を下げ、じっと動かなくなった。ザンガは狐の首を持ち、高々とそれを掲げた。朝の光が狐の毛を黄金に染め、雪は砕けた金剛石だった。ザンガの太く無骨な指が、狐の首にかかる。
狐は声も牙も爪も立てず、静かにザンガの手にかかった。
気がつくと、兄はもうその場にいなかった。先ほどの道を早足で戻る背に弟が慌てて駆け寄った。もう見るものは無いから、と白い息の塊を吐いて兄は呟いた。
また、吹雪がきそうだった。たっぷりと雪を孕んだ灰色の雲が、山をすっぽり抱こうとしていた。
***
雪解け水が川を潤し、固い蕾は綻んで、ザンガは死んだ。
いつもの広場に仰向けになって、目を見開いたまま、大の字になって死んでいた。先に起きた弟がザンガの不在に気づき、兄弟揃って探しに出てすぐそれは見つかった。地面はぬかるみ、ザンガのまとっていた毛皮も腰蓑も泥で汚れていた。牛のような角も、蝦蟇蛙のように大きく裂けた口もそのままに、ただいつも油皿のようにギラギラと輝いていた目は湖面のように凪いでいた。春の空を映しているせいだろうか、うっすらと白く膜がかかっているようにも見えた。
二人は暫くの間ザンガの傍を離れなかった。どうすればいいのかわからなかったのと、あのザンガでさえ死ぬのだという事実がいまひとつ受け止めきれなかったのだ。
ざわざわと獣の息遣いが自分達を取り囲む。もうザンガはいない。だけど、恐怖も無い。狼でも熊でもなんでも、欲しいのなら腕だろうが足だろうが腸だろうが好きなだけ持っていけばいいのだ。それは当たり前のことだと、そう兄弟は感じていた。
誰も動かない。誰も鳴かない。雲雀の声もしない。
二人は、黒い土を手で掘り起こし始めた。泥でぬかるんでいるのは表面だけで、すぐに固く凍った層に突き当たる。ザンガの腰蓑から手頃な包丁を探し出すと、それで地面を削った。子供二人の腕ではザンガ一人埋めるだけの穴を掘るのにかなりの時間を要した。十尺はあろうかというザンガの巨躯をすっぽり埋めるだけの深い穴が出来がった頃には、もう月が真上に来ていた。兄が頭を、弟が足を持ち、ザンガを深い穴に横たえた。ザンガの目は鈍い銀色に輝き、満月がそこをゆっくり通り過ぎていった。目がなんの光も映さなくなって、兄は自分の羽織っていた鹿の毛皮を顔に被せた。そして二人はよじ登って穴から出ると、湿った土をその中に落としていった。
ザンガの埋葬を終える頃には薄紫の陽光が山の輪郭を縁取っていて、やがて光は桃色に、黄金色にと姿を変えた。兄弟は顔を見合わせ、どちらが言うでもなく体や髪を川で洗い、仕舞い込んでいた綿入れや着物を取り出し、干し肉をいくらか懐に忍ばせた。一度、あの村へ帰ってみよう。きっと母も生きてはいまい。それでも一度だけ、遠くからでもいいから、村がどうなったのか見てみたいという強い欲求が二人の内に渦巻いていたのである。手に馴染んだ包丁を腰紐に差し、自分達で作った藁沓を履いて、兄弟は飛ぶように雪の残る山を駆け下りた。
太陽を目印に三日三晩兄弟は駆け続けた。川を渡り、谷を越え、幾つかの集落を横目に兄弟は走り続けた。体は風に舞う羽のように軽い。膨らみ始めた梅の蕾に僅かに雪が残っているが、風には苦い緑の匂いが混じっている。春だ。世界は色彩を取り戻し、鳥も虫も獣も花も木も土も水も、凍えた眠りから目覚めたのだ。この高揚感にあてられたまま、四日目の朝に兄弟は村の裏手に至った。ここを真っ直ぐ下りれば自分達の家に着く。不意に兄の指が痛みを訴えた。よせ、止めろと言っているのか。自分を思い出せと言ってるのか。
兄弟は滑るように斜面を下りた。予想していたことだったが、家は跡形も無かった。それは致し方の無いことだ。
だがそれだけでは無かった。見慣れぬ家が既にそこに在ったのだ。
あのような状況で、例え長い冬であったとしても家が一つ建つものだろうか。訝しみながら、兄弟は確かにここにあった家のことを思った。家などと呼べるものではなかったかもしれない。強く風が吹けば壁や屋根が飛ぶような掘っ立て小屋だ。それでも兄弟が育った家はそれだった。
目の前にあるのは立派な厩作りの家だった。茅葺の屋根に、太い木材で作られた柱や壁は少しの風ではびくともしないはずだ。自分達の気配を感じ取ったのか、馬が二頭こちらに首を伸ばして落ち着き無くいなないた。
馬の様子を見に来た若い女と目が合う。
兄弟は一瞬言葉を失った。何を言えばいいのかわからない。記憶の川底で泥を被っていた村の名前をやっとの思いで拾い上げ、その名を問う。
女は、そうだ、と答えた。
癸卯か? と問えば、女は、そうだ、と答えた。
去年、飢饉があったろう、と問えば、女は不思議そうに首を傾げた。飢饉はあったが、去年ではないと言う。
兄弟は互いに顔を見合わせた。
何かがおかしい。
何かがおかしい。
何かがおかしい。
女が何か言おうとする前に、兄弟は風のように消えた。
村の外れの寺はまだ残されていたが、住む者が誰もいないのは見て明らかだった。屋根瓦は割れて雑草が生え、苔むして、柱は一部が腐っている。たった一冬でここまで荒廃はしない。
兄弟は鳥居を潜って境内に足を踏み入れた。数ヶ月前、ここに多くの死体が積み上げられていた。今はあちこちに薄紫のカタクリが咲いている。
ぐるりとお堂を回ると、裏に見たことのない大きな石碑があった。兄弟は字が読めない。それでも石碑に顔を近づけて、そこに彫られた字の一つ一つをなぞった。潰れた指からは歪んだ爪が黒く伸びていて、それはザンガの角にどことなく似ていた。
兄は、その爪で石碑を殴りつけた。石碑の文字は一部が削れ、そこに何が書いてあったのかわからなくなってしまった。
村を一望出来る松の木の根元に二人は座っていた。風が二人の髪と着物の裾を揺らす。綿入れや藁沓はもう暑くなり脱ぎ捨ててしまった。
「なぁザザン」
弟が兄を呼んだ。
「なんだガガン」
兄が弟に応えた。
「帰ろう」
「ああ」
ザザンとガガンは立ち上がり、風になって山を駆けた。そして村に戻ることは二度と無かった。
***
ザザンとガガンは双子の鬼の兄弟だ。山奥の一軒家にひっそりと暮らしている。よく似ている二人だが、見分けるのは難しくない。右手の人差し指に、鬼の角のような黒い爪が生えているのが兄のザザンだ。
ホォウ! ホォウ! ホォォォ……
森の木々が揺れ、鳥が飛び立ち、獣は耳をそばだてた。あれはどちらの声だろう。雪解け水が川を潤し、きらきらと輝いている。朝焼け色のカタクリが、俯きがちに咲いていた。
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