ohno_2


返事がご無沙汰になってしまいました、すみません。
なにを交換日記に書こうかと考えていたら、微妙に忙しい日が続いてしまいました。。
前回みたいにタイムリミットを決めていたのでよかったのですが、書けるときに書こうと思っていたらだらだらと。。笑

ナラティブが有効に働かなかった場合は共感が生まれず、大きな反発や分断が生まれ、無理解を助長させるのではないか、というのはぼくもとても思うところがあります。
最近、篠原雅武の『公共空間の政治理論』という本を読んでいるのですが、この中で著者は「純粋な共同体」が相互連関的な秩序の妨げをしていると書いています。なぜかというと、この共同体は内向きに結束しつつ、外部からは「撤退しながら、自分たちの誠実性や道徳性を主張し弁護する」(篠原、1975-:56)からとしています。まさにそれぞれの主張ばかりが飛び交う、あいちトリエンナーレや日本学術会議のような状態のことだと思いました。
しかしと同時に、決して強い結びつき自体がダメなはずもないと思います。その集団の結びつき自体を稀薄化させることなく、他の集団としなやかな結びつきを作っていく方法を、作品制作と同時に自分なりに考えていけたらと思っています。

作品の話、とてもどうなっていくのか気になりました!自分にも言えると思うのですが、文字としてまとめていくと、これじゃ伝わらないなと反省しつつ、でも結局ビジュアルイメージは伝えようがないので、想像だけが広がるなぁと。
須賀さんの次作はコンクリートを起点に物語が始まり、最終的にフランケンシュタインに接続していくんですね、、全く想像ができずです。とても楽しみにしています。
最後にぼくが観た須賀さんの作品は『凪の国』なので、その時との差も気になるところです。『凪の国』では、凪の国という風が吹かない国、もっと言えば風を起こしてはいけない国に生まれ育った主人公を軸に物語が構成されていたと記憶しています。その時に扱っていたイメージとして「風」があり、作品の中で「風」は、目に見えない規範であり、と同時に憧れの対象のようだなと思っていました。
ですがコンクリートはそれとは対照的な印象があります。目に見えて、とても硬いコンクリート。。一体どのように扱われるのか。。

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追伸
先日学生に教えてもらったのですが、仙台管区気象台が『風が吹く仕組み』(2020/10/30閲覧)という面白い記事を書いています。この記事によれば、そもそも風とは「空気の動き」のことをいうそうです。動かない風がある=空気しかそこにはないという構図で『凪の国』のことを考えれば、重さの感じられにくい「風」から、はっきりと重さのある「コンクリート」に須賀さんが興味を持たれたことに納得がいく気がしました。

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参考文献
篠原雅武『公共空間の政治理論』人文書院、2007年
仙台管区気象台webサイト『風が吹く仕組み』 https://www.jma-net.go.jp/sendai/kyoiku/yoho/a_kaze_ws.pdf 、2020/10/30閲覧

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