石原慎太郎の生き方と逝き方
世相を痛快にえぐり出す小説家であり、東京都知事として4期を務めた政治家でもあった石原慎太郎。輝かしい経歴と危なっかしい名言の数々から、つとめて活発、大胆な人柄であると認識している人も多いでしょう。たくさんの人に囲まれて生きた慎太郎さんは、しかし「葬式不要、戒名不要。我が骨は必ず海に散らせ」と言い残して亡くなりました。
老いてのち脳梗塞にかかってからは、死を見つめるエッセイをたくさん書き残しています。石原慎太郎の死生観を、彼自身が綴った文章から考察します。
中学3年生でヨットを買ってもらい、弟・裕次郎さんとともに夢中
子どもの頃、慎太郎さんの家は、湘南の海から歩いて5分ほどの立地にありました。弟であり、後に人気俳優となる石原裕次郎さんとともに海とたわむれ、中学3年生のときには父親からディンギーヨットを買ってもらいます。これが、生涯関わることになるヨットとの出合いでした。
慎太郎さんはさまざまなヨットレースに出場し、数々のトロフィーを手に入れます。レースのクルーとして一緒に海で戦い抜く仲間は、生涯のかけがえない友となりました。
弟・裕次郎の遺骨を海に撒こうとして止められる
1987年に弟の裕次郎さんが亡くなったとき、慎太郎さんは「海をこよなく愛していた弟を、海に還してあげたい」と散骨を希望します。しかし、当時はまだ散骨が違法と解釈されていた時代。海洋散骨の夢は、断念せざるを得ませんでした。
その後、1991年に市民団体の「葬送の自由をすすめる会」が、「散骨は違法にあたらない」と主張し、公開散骨を行います。この公開散骨を受け、法務省からは「葬送のための祭祀として、節度をもって行われる限り」違法とはならないという旨の見解を発表しました。ここから散骨への世論は変わりはじめ、海に憧れを持つ人が散骨を行うケースが出てくるようになりました。
脳梗塞を患い左手麻痺などの脳障害が残る
80代前半、慎太郎さんは脳梗塞を患い、利き手の左手に麻痺が残ります。また、漢字やカタカナを忘れてしまうといった障害に悩まされました。小説家の慎太郎さんには致命的と思われるような障害ですが、ワープロを駆使して入院中にも精力的に小説を執筆します。
その頃から、慎太郎さんのエッセイには「死」の話題がひんぱんに登場するようになります。自らの死生観、憧れる生き方と逝き方、老いの意味……。ここからは、慎太郎さんの綴る文章を参考に、彼が理想としていた老いや死について考えていきます。
男の潔い死に際に憧れる
慎太郎さんは、「私が好きな男の死に際」として2人の人物を上げています。
1人目は、平家の公達の一人、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)です。『平家物語』の中に、このような話があります。忠度が都落ちをしていく途中に突然馬を返し、歌の師匠である藤原定家の家を訪れて自分の歌集を手渡しました。そして「あなたが編集している勅撰歌集に、もし可能であれば自分の歌を」と言い残して死地の戦場へ去ります。
定家はその心をしかと受け止め、「詠み人知らず」として忠度の歌を勅撰歌集へ載せました。
「さざ波や 滋賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな」
この話を慎太郎さんは「なんとも胸を打つしゃれた挿話」と評しています。
もう一人は、家臣の明智光秀に謀反を起こされ自害した織田信長です。もっとも信長については、死に際だけではなく、その天衣無縫な生き方全てにあこがれを抱いていました。
“それにしても彼はやるだけのことをやりつくし、志していた「天下布武」達成寸前に飼い犬の明智光秀に背かれ本能寺で死んだ。その死に際も彼らしく、氾濫し押し寄せた軍勢の旗印は何かと尋ね、「桔梗の紋所」と聞いて、「明智か、ならば栓もない」といい捨てて寺に火を放ち、炎の中、奥の書院で誰に解釈もさせず自決してしまう。まさに「人間五十年」と人生をくくりきった男の死にざまだな。”(『男の粋な生き方』)
「栓もない」とは、「しかたがない、どうしようもない」という意味です。死期を悟ったら、しっかりとそれを受け入れて、きれいに死んでいく。慎太郎さんは、そんな去り際に憧れていたということではないでしょうか。
愛する者の死が、奇妙な勇気と気負いを与える
慎太郎さんは、ヨットレースで切磋琢磨した仲間を老いの中で次々に亡くしていきます。強敵だった2人の仲間を相次いで亡くしたときには、自ら船を出し、2人の遺骨を海に撒きました。この時の心情を、慎太郎さんは次のように語っています。
“その時感じた無常観はひとしおのものでした。それでも「よし、俺はまだこの海をお前に代わって走り続けるぞ」という妙に清々しい気負いもありました。
親しい愛する者の死は奇妙な勇気と気負いを与えてくれるものです。それは人生におけるバトンタッチのようなものだと思います。それが無くしてどうして私たちは親しい者の死を悼むことなど出来るのでしょうか。“(『老いてこそ生き甲斐』)
心に穴が開いたような寂しい気持ちとは裏腹に、「あなたの分も生きてみせる」と体の内側からみなぎってくる力がある。親しい人の死を目の当たりにしたときの心情を、率直に語っています。
我が骨は必ず海に散らせ
2014年に発表した『私の海』の最後には、もし生まれ変わりがあるとすれば「孤り悠々と世界中の海をくまなく巡って歩ける」鯨になりたいという心境をつづった上で、こう書き残しています。
2021年10月、慎太郎さんは続く腹痛の原因を調べるため、病院で検査をしてもらいます。すると、半年前に手術したはずの膵臓がんが再発していたことがわかり、余命三ヶ月と診断されます。そして2022年2月1日、その生涯を閉じました。
最後まで書いていた原稿として『文藝春秋』に掲載された「死への道程」では、余命宣告を受けてのちの心情が丁寧に描写されています。
『文藝春秋』同号では、四男の石原延啓氏が、慎太郎さんが最後の日々で遺した率直な言葉についても語っています。息子にだけ見せる、弱々しくも死への覚悟に満ちた表情が目に見えるようです。
葬儀は家族中心にひっそりと。後日、散骨式やお別れの会が行われた
慎太郎さんの葬儀は、家族中心に20人ほどが参列する形で行われました。後日行われたお別れの会には、5000人近くが参列しています。
もし慎太郎さんが自身の死生観や理想とする死に際について書き残していなかったら、亡くなった時点でかなり盛大な葬儀が行われたことでしょう。「それは本人の本意ではない」と家族や周りの人たちが理解していたからこそ、少人数での見送りが叶ったのではないでしょうか。お別れ会に5000人もの人が訪れたことについては、慎太郎さんほどの功績を残した人であれば仕方がないのではないか、と思われます。
海への散骨式では、4人のご子息がそれぞれ水溶性紙に包まれた遺灰を手に持ち、静かに海へ還しました。
【参考文献】
『男の粋な生き方』石原慎太郎、幻冬舎
『男の業の物語』石原慎太郎、幻冬舎
『老いてこそ生き甲斐』石原慎太郎、幻冬舎
『私の海』石原慎太郎、幻冬舎
『死という最後の未来』石原慎太郎・曾野綾子、幻冬舎
「死への道程」石原慎太郎、『文藝春秋2022年4月号』所収