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「ザ・サン 罪の息子」上巻を読み終えて、サニーに魅了されまくっている。

ジョー・ネスポの「ザ・サン 罪の息子」を読んでいるのだけれど、上巻を読み終わったところで、主人公サニーに肩入れしすぎて、悲しい結末にしかならないんじゃないかと、下巻に行くのが躊躇われる。
間に他の本挟みそう。

この本に書かれている作家の簡単略歴に「やがて燃え尽き症候群のような状態となり、オーストラリアへ半年逃れる。」っていう件があるのがなんかいい。
その時に書いた小説がいろんな賞を取って、作家になったらしい。
人生いろいろだな。

ドラマでも小説でも、フィクションとは分かっていても、キャラクターの作り込みが上手で魅力的だと、読んでてどんどん引き込まれるし、とんでもない性格だったり、まあ、殺人者なんて到底普段はありえないのだから、共感する要素があってはいけないのかもしれないけれど、応援しちゃったりする。

ポアロの事をアガサ・クリスティは嫌いだったって何かで読んだけれど、もう、作品を離れて一人歩きするほど、確実に存在しているし、もちろん、ホームズとかも「本当は存在しない人なんだよ」って言われた方が違和感がある。
トム・リプリーにも会った事がある気さえする。

作家冥利に尽きるんだろうな。
自分が死んでも、自分が生み出したキャラクターがほとんど全世界で知られていて、形を変えても愛され続けるっていうの。
すごいことだ。

絵もそうだ。
なんだかんだ言って、いい絵は描き上げられた瞬間から、それ自体が描いた作家の手元を離れて、個別の物として人格を持ったかのようにいろんな旅を始める。
時々、自分の作品を残したいか残したくないか、みたいな話をする人がいるけれど、作家が「世の中に残る絵を描くんだ」って言ったって、残していくのはその絵の周りに存在する人間であって、いくら作家がそう言ったところで、どうしようもない絵だったら誰も残す努力なんてしない。

作家ができることは、今描いてる作品に真摯に向き合う事と、もしもその作品が後世に末長く残るとしたら、作品を保存するにあたって、自分が今の時点でその作品に何ができるか、何をしたらいいのかを考えて施す事ぐらいだ。

それに「僕は、自分の絵を残そうなんて考えてない。それ以前の問題だ。目の前の作品を描く事自体が僕の絵描きとしての生き方だ」とか言う作家もいるけれど、今それをご心配召されるな。
それを決めるのは、悲しいかなあなたではない。あなたの手から旅立って行った、作品自身だ。

その作品を見た人達や、手に入れた人達、たまさか美術館に収蔵されでもしたら、その道のプロが大切に残してくれる。
残すとか残さないとか、ほんと、考えなくていい。
そうじゃないところを一杯考えて、一杯描いて欲しい。

修練すれば誰でも上手くなる的な動画があるけれど、ああいうのはあんまり好きじゃない。絵を描くテクニックをパパっと教えるようなやつ。
趣味ならいい。それならなんでもいい。楽しめればいい。

作品に向き合うのであれば、テクニックだけ上達しても、同じ絵の具を使っても、おんなじキャンバスを使っても、ダメなものはダメだって思うから。
カメラだってそうだ。誰だって撮れる。
今は、全世界の人がカメラマンで、小説家で、絵描きだったりする。

残るものがいいって言ってるわけじゃない。
もしかしたらこれまでも、傑作なのに誰の目にも触れずに朽ちていった作品もいっぱいあったのかもしれない。
その作品や映画や小説を発表した時代にフィットしてなくて、その時は駄作だと言われ、相手にされなかった作品もあるかもしれない。

誰の目にもつかず、部屋の押し入れに入れっぱなしになってた作品だったら仕方ないかもしれないけれど、もしも世間に発表してちょとでも誰かの目についたとしたら、時代や流行がどうであれ作家の思いもよらない旅を経て、残ったりするものもある。

自分が死んでも残るものがあったら、ちょっぴりいいなあとも思う。
でも、死んじゃったらそれで終わりだから、別にいっかと思う部分もある。

あーやっぱり気になる。
どんな結果であれ、ジョー・ネスポが生み出して描き出したサニーの結末だ。
見届けなくちゃ。

さっき、南の空に宇宙ステーションが見えて、あっという間に遠ざかっていった。
何にも分かってないくせに、なんだかカッコイイと思っちゃう。
本当にあっという間。
教えてくれてありがとう。

ぐんぐん遠ざかっていく宇宙ステーション。
バイバーイ。





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