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「私のカワウソちゃん」じゃなくて「私のトナカイちゃん」完走。4話から一気見。

今日、天気が良いので動物園に遊びに行った。

それはいいとして「私のトナカイちゃん」完走。

タイトルだけでは見なかったであろうNetflixで配信中のドラマ。

簡単に説明すると

ドニー・ダン このお話の主人公。30前後の男性。パブで働きながら芸人になるのが夢なんだけど実のところあんまり才能がない。

マーサ ドニー・ダンのストーカー。過去にもストーキング事案で逮捕歴あり。ドニーが働くパブに偶然来店するもお金がない。それを見たドニーが可哀想に思って、紅茶をご馳走する。悪夢の始まり。

あとは、ドニーが付き合ってた彼女キーリー。その後付き合ったトランスジェンダーのテリー。ドニーに変な癖を植え付けて、なおかつある部分を覚醒(?)させた脚本家のダリエン

どれもこれも癖が強い。

3話くらいまでは、マーサの行動が凄まじくて、ただただ目を白黒させながら、こんな奴が現実に存在したらたまったもんじゃないなと見る事になる。って、これ実話。マジか。

脚本も手掛けてるドニー・ダン役のリチャード・ガットの実体験に基づくストーリーなのだ。

しかし、よくそれをドラマにしたなと思う。なんでも一人芝居で既にやってたらしいけど、勇気があるっていうか、このドラマを作った最終目的がなんなのかなかなか掴めない。

このままマーサの人智を超えたドニーに対する執着ぶりと、なんだかんだ言ってマーサを見捨てることのできないドニーの優柔不断さのままストーリーが進んでいくのか?と思いきや、4話目から話がグッと動き出す。

ドニーの、なんだか煮え切らなくて他人と上手く接することのできない、なんとも自信なさげで、それでいて芸人になる夢に固執する人格が、何をきっかけにそこまで拗らせるようになったのかが描かれていく。
ドニーをそんな風にした人間の犯人は脚本家のダリエン。
でも、本当の犯人はドニー自身。

自分の実力のなさを、手段を選ばず手っ取り早く地位や名声を手に入れることでカバーしようとして先走った結果が、今のドニー。
ここのシーンは、哀れなもの。
他力本願で何かを手に入れようったってそうは問屋が卸さない。
結局残ったのは、その出来事の前よりももっと自分を見失ってしまうという情けない事実。

マーサますますストーキングと嫌がらせに磨きがかかってきて、ドニーに日に100通知回メッセージを送ってくるし、ドニーの両親にまで罵詈雑言を浴びせるようになる。iPhone以外から送信してるのに、メールの結びはiPhoneから送信。

でも冷静に考えてみると、ここまで大袈裟じゃなくても、近い路線の人って周りにいる気もする。
もちろん、法律に抵触するほどストーカー行為をする人とか、この日本で薬やりまくってる人とかの知り合いには皆無だけど、それをうーんと水で薄めたら他人事じゃないように思えてきた。

夢を追いかけるのはいい事だし素敵なこと。でもその根底にある「なぜ?」の答えが「だってそれが夢なんだもの」じゃなくて「その夢が叶ったら有名になれる」とか「いい生活を送れそう」とか「今の生活から脱却できそう」とか付属の思惑の方が大きすぎると、夢に向かう道はくねくねしてようが、ギザギザしてようが、本来なら一本で夢まで繋がっているはずなのに、たくさんの横道がでてきて、どれを選んでいいかわからなくなるし、余計な時間がかかるような気がする。

虚栄心も怖い。これだって大なり小なり生きてれば目撃する。

なぜにそこまで、どう思われたいんだっていう人を見かけることもある。
弱虫なんだなあと思うけれど、それで切り捨ててもいけないような気もするし。
本人が一番よくわかってるから、そういう態度に出るんだろうし、なんだか見てると辛くなる。

そうこれ「なんだか見てると辛くなる」そして「可哀想に思えてくる」そして「そんな人なんだから、気づかないフリして静観してあげるしかないか」と思ってしまう。

ドニーのマーサに対する気持ちもわからなくもない。
そのあと「どうしてあんな風になっちゃったんだろう。きっと人には言えない何かがあったんだね」と、疑問に思うものだから、理由を探して自分を納得させようとする。

殺人犯の動機がわからないと、どうにも納得できないのとおんなじだ。
「あーそんなことがあったのね、だからヤっちゃったのね」って安心したい。
人殺しには変わりないのに、自分の心の平穏のために少しでも動機に意味を持たせようとする。

ここまで読んできてもらって「私のトナカイちゃん」っていうタイトルのドラマで何をそんなこと書いてるんだ?って思った皆様、そうなんです「私のトナカイちゃん」はただの中年のストーカー女性が年下の男に執着しまくって、追いかけ回すだけのお話ではないのです。

そうしていろんな問題を軽く深く盛り込んでいきながら、ドラマは終焉を迎える。

等身大の自分を受け入れられなかったり、負け方を知らない人生を送り続けてると、誰だってドニーにもマーサにもなりかねない危険性を孕んでる。
そして嘘だろうがなんだろうが、自分を褒めてくれる心地よい世界を安易に受け入れてしまうのかもしれない。

激しいお話だけど、誰でも心の隅っこに自分ではどうしようもできない妙な感覚があったりする気もする。ただ、きっかけがないだけで今のところは一線を越えてないだけなのかも。

ラスト、マーサがなぜドニーを「私のトナカイちゃん」って呼んでたのかっていう謎が、フラッと入ったパブで解けるシーンがある。
ドニーはそれを聞いて泣いちゃう。
私も一瞬「そうなんだー」って納得して可哀想だなって・・・。でもグッと堪えて「同情」じゃなくて「共感」できる人になろうと思い直した。

ウォッカのコーラ割りを頼んだドニー。財布を持ってきてない。
パブのバーテンダーがそのことを聞いて少し同情を含んだ瞳でとドニーを見る。

「心配ない おごるよ」

 なんか1話目で見た気が・・・。

「優しさ」と「同情」の違いは、どこなんだろうと、ふと思う。

ドニーはお金を持ってないわけじゃなくて、ただ単に財布を忘れただけで、マーサーの告白を聞いて涙ぐんでるだけで、そのドニーの姿にバーテンが感じた「同情」は、多分、筋違いだ。

自分の知識だけで答えを出しちゃいけない時もあるんだな。

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