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今日の夜からもしかしたら雪が降るかもしれないらしい。ちっこい雪だるまくらいできるかな。

昨日、仕事も一段落したのでちょっとカワセミッチェルに会いに行ったら、いつも彼が飛んで来て止まる石が、最近降り続いた雨で水量が増加した川のせいで水没してて、こういう時はどうするんだろうといつもの時間まで待ってみたけど、来なかった。
残念。やっぱり、あの石に止まれる状況じゃないと来ないのかな。
っていうか、彼はそれをどうやって知る事になったんだろう?
一度、飛んできて眺めて確認したんだろうか。不思議だ。
それにご飯はどうするんだろう。他にもあるんだろうけれど、いつもはここでもお魚とってるわけだし。
となるとやっぱり、あの場所のあの石にやってくる前後の行動が知りたいと思ってしまう。

カワセミッチェルがいるいつもの場所。石が水没。
全てが冬枯れしてる中にあるピンクって綺麗。

この間ちょっとテレビをつけたら、川端康成の「雪国」をドラマでやってて(映画かもしれない)全部は見なかったんだけど、その中に駒子の日記を朗読するシーンが挟まれてて「貧乏はイヤ、貧乏はイヤ」と何度も繰り返すシーンがあった。
あんまりにも切なそうに何度も何度も繰り返すものだから、なんだかそれが耳について、というか、あんなに何回も「貧乏はイヤ」って繰り返すシーンがあったっけ?と思い、ちょこっとKindleしてみたので、読んでみようと思う。

「イヤ」っていう言葉は、否定っぽいっていうかマイナスっぽい響きがあるし、あんなに何度も「イヤ」って拒否するように繰り返してるのに、その女優さんが言うと(駒子が芸者さんだからかもしれないけれど)そこはかとした色気と、それを超越する決意が見てとれて、あまりに可哀想な気分になってしまった。
あんなに「イヤ」って何度も口に出すほど「イヤ」な事が思い当たらない私は幸せなのか、それとも、そこまでの経験がある駒子の方が幸せなのか、どっちだろうと思ってしまった。

それにあの中に描かれている世界は現代ではあり得ない世界なのか、それとも私が知らないだけで、結構あることなのか、どうなんだろう。

恋愛にちょっとばかり疎いっていうか、普段あんまり興味がないので、ここで一つ、ノスタルジックな恋愛なら、映画を見ているようで面白く読めるかもっていう感じで読んでみようと思う。

 キクさんについてはこんな証言がある。小説に登場する旅館のモデルとなった「雪國の宿 高半」の女将、高橋はるみさんによると、「キクさんは色白で綺麗で、売れっ子の芸者さんだったそうです。といって、媚を売るような女性ではなく、むしろ気丈な人だと聞いています。会話の機転もきく明るい女性。晩年、病院で読書中に、“恋愛小説でも読んでるの”と看護師に聞かれ、“恋愛は読むものじゃなくて、するものよ”なんて切り返したそうですから」

「墓碑銘 『雪国』駒子のモデル 小高キクさんの晩年」:「週刊新潮」より

ちょこっと検索したら、こんな記事が出てきた。
駒子はキクさんっていう実在する粋な女性がモデルだったらしい。
上の記事を読むと川端康成も惚れるような女性だったんだろうなと想像ができる。
川端康成はキクさんに許可も取らずに「雪国」を書いて、書いた後に連絡したらしいけど、今考えるとそれってすごい事なんじゃないかと。

上の記事の続きによると、川端からはこのお話を発表した後、詫び状と生原稿が送られてきたけれど(生原稿!)、キクさんは芸者をやめる時、日記などと一緒に全部、焼き捨ててしまったという。
癇に障ったんだろうな。

たまにはいい。
冬になると、必ず雪が降り続いてその雪が溶けずに積もるような場所に住んだ事などないから、それ自体、日常を離れた世界に連れてってくれそうだし、明日は雪が降るかもしれないらしいから、おとぎ話みたいに感じそう。

「雪国」かあ、うまいことタイトルつけたなあ。
おまけに読んだことはなくても、みんな「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」ってところはなぜか知ってるもんね。

こちらからそちらにトンネルを抜けて自分の意志で行く人と、抜けた先に住む人の間にはものすごい差がある気がする。
それを知ってて、こちらからトンネルを抜けて愛人の駒子を訪ねて行く自分を認識しながら「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」を書いたんだとしたら、川端康成って結構イケすかない奴に思えてきた。
あっ、川端康成のことなんて何にも知らないから、そういう男の人だったら、って感じかな。
主導権は自分にあるって風に勘違いしちゃってて、本当はその先にある夢の世界に思いっきり翻弄されているような人。

いやまだわかんないよ、なんか「行男」っていう人の存在も気になるし、読んでみたらなんか違うかもしれないし。
読む前の感じね。




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