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なぜ我々は琵琶湖の水を止めようとするのか-大津市民から見た滋賀県民と京都市民

(本記事では滋賀と京都を並列で語る際に、滋賀京都の順で記載していますが、それは滋賀の優位性を主張するが故ではなく、ただ単に自分が滋賀に住んでいるからです。あしからず。)

こんにちは。やもです。
自分は滋賀ブラックスという野球チームの応援団をしているのですが、
その応援歌の中にこんな曲があるんです。

「琵琶湖の水止めたろか」と連呼するこの曲。
そのインパクトから一部の野球応援マニアからは注目されていると同時に、しばしば「本当に京都が嫌いなんですねw」というような事を言われます。

結論から言いますとその答えはNOです。
むしろ好きです。
自分の場合は中高6年間京都の学校に通っていましたし、大学時代以降は河原町木屋町を飲み歩き、先斗町の適当なおしゃれな居酒屋かバーで女の子を口説いていました。
ちょっといいモノを買うときは大津の西武ではなく京都駅の伊勢丹を使います。
こんな具合にお隣にある身近な存在で、街の雰囲気も大好きです。
じゃあなんで、嬉々として琵琶湖の水を止めようと思うのか。
ここには滋賀と京都の歴史を読み解く必要があります。

職人と自由の町・京都

皆さん、明治維新より前の京都というと、どんなイメージでしょうか?おそらく少なくない人が貴族の町と評価する人がいると思います。
それは半分あっています。

少し視野を広げてみます。地産地消が当たり前の時代、貴族たちの物欲を満たしていたのは、京都で作られる野菜や工芸品だったわけです。
貴族向けの商品は競争によって洗練されおのずと高級化しますし、多くの職人が切磋琢磨していたのです。いわば、江戸時代の京都は日本の一大工業都市でもあったわけです。今も残る工芸品としては西陣織や清水焼は有名ですね。まず、そうした職人の文化が街にある、と自分は評価しています。
実際に職人気質な京都発祥の企業もたくさんあるわけです。任天堂、京セラ、ローム、オムロン、島津製作所、ワコール、日本新薬…枚挙に暇がありません。

さらに近代に入ると京都に三高ができ、のちに京都大学となります。その他に同志社、立命館といった私大も林立し、学生が自由な街の風土を作ってきました。実際に京都の人口の10%は学生です。

この職人気質と自由な風土が京都を形作っていると、自分は評価します。

物流の拠点・滋賀

滋賀というとその文化を特徴づけるのが近江商人文化でしょう。彼らは戦国末期から江戸時代にかけて隆盛を誇りました。そのルーツを持つ企業として伊藤忠商事や高島屋などは有名です。(西武グループも滋賀発祥ですが堤一族は近江商人ではないです。)
なぜ彼らが商業で栄えたかというと、近江が流通の拠点だったからです。

江戸時代に幕府は五街道を整備し、その中の中山道と東海道は江戸と京都を結ぶ、最重要街道でした。
京都の直前で、その中山道と東海道が交わるのが近江の国だったわけです。
近江商人は京都に近いという地の利を活かし、街道で仕入れたものを京都の人たちに売り、そして京都の工芸品を全国に流通させました。つまりこの時代から、京都と滋賀は良きビジネスパートナーだったのです。ヨーロッパで例えるならベルギーやオランダの立ち位置です。今も滋賀の人は京都や大阪に働きにあるいは学びに出ますが、これは昔より続く人の流れの延長上なわけです。

ゆえに滋賀の風土は「我が我が」ではなく、周りのいいとこを得ようという風土になります。これは京都の職人と自由の風土とは一線を画します。滋賀は保守的で協調を重んじます。
現代に入り、多くの人が京都や大阪から入ってきました。それもぽつぽつではなく、ある程度の規模もってドカンと宅地が作られた土地に入ってくるわけです。
それを上手に地域に取り込んでいるというのが、自分の所感です。

一番いい例がまさに自分の地元の大津の滋賀里という地区にあります。
ここには志賀八幡宮という神社があり、従来は滋賀里と南志賀という二つの町内を氏子としていました。
それが70年前に滋賀里の中にある天領が民間に払い下げ宅地が造成され蟻の内という宅地ができました。滋賀里と南志賀からするとよそ者が入ってきたわけです。
しかし、そのよそ者に対して二つの町はうまく受け入れました。
その例が志賀八幡宮の例大祭の竹鉾にあります。これはもともと各町が1本ずつ祭りの際に神社に奉納していたのですが、蟻の内も三本目の竹鉾が認められ、滋賀里と南志賀の2町と並んで3町で宮入を行います。
このような事例は全国的に見ても珍しいのではないでしょうか。

なぜ琵琶湖の水を止めるのか

なぜ滋賀県民は琵琶湖の水を止めたがるのでしょうか?
理由は大きく分けて2つあります。

一点目。
それは人の行き来が盛んになったことです。
京都に特徴づけられるイケズもこれは、職人と貴族の町の京都では有効な処世術なわけです。また、保守的な滋賀の人間もこれはこれで滋賀においては重要な処世術なのです。
両者が邂逅したとき、それは互いに異質なものと感じます。
滋賀の人から見ると嫌味ったらしく見えますし、京都の人から見ると田舎臭く見えます。人は異質な存在を遠ざけたくなる傾向を持ち、場合によっては攻撃を行います。
その行きつく先の一つが「琵琶湖の水止めたろか」なわけです。

二点目。
近年(というか昔から?)、地域の特徴を面白おかしく取り上げる風潮があります。テレビ番組ではケンミンショーとか、月曜から夜更かしとか、最近では「飛んで埼玉」も話題になりましたね。
自分の住んでいる地域と他の地域を比較し、互いに優位性を主張するというのは一大エンターテインメントになりました。
滋賀と京都はその最前線です。
これは知的な遊びであると同時に、基本的に協調するより、対立するほうがおもしろいのです。「琵琶湖の水止めたろか」は単純にその流れに乗るとおもしろいわけです。

こうした理由から我々は今日も叫びます。
「琵琶湖の水止めたろか」と。

滋賀と京都はベストパートナー?

社会的なまた経済的な繋がりを見ると、自分は滋賀と京都はベストパートナーだと考えています。京都を無くして滋賀は無し、滋賀を無くして京都無し。
実際に滋賀から琵琶湖疎水が開通したときに、京都市民は祇園祭の山鉾を巡行させ、五山に送り火を焚いて、そのことを祝い滋賀に感謝したのです。互いにリスペクトをする関係だったのです。
もちろん、それは今も続くものだと思います。自分は今も多くの滋賀と京都の人が互いにリスペクトしていると信じています。

No SHIGA, No KYOTO.

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