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「死にたい」のわけ

「もう、何もかも嫌だ」
「もう、限界だ」
「楽になりたい」
「まだ、できることがある」
「必ず、道を見つける」

これが私のパターンで、循環していた。

心の中が真っ暗闇になり、何もかも虚しく感じてしまう瞬間、立ち止まって周りを見渡しても、頼りになる人が誰もいないように思え、絶望感に襲われることが度々あった。

そんな時はどこへ向かうべきなのか、誰に、どのように助けを求めればいいのか、何もわからなかった。

気分が落ち込んだり、憂鬱な気持ちになったり、辛い時、孤独を感じていた。

理想とは真逆に、家族や友人は共感を示すことが難しそうだったから、一人で抱え込んで、一人で頑張らないといけないと思っていた。

最近、ある本を読んで、私が幼少期から抱いていた「死にたい」の、本当の理由がはっきりと見えた。

自分が普通とは違う問題のある状態だとか、努力しても何も起きなかったとか、自分に障害があるせいだとか、誰にも自分を理解してもらえないとか、それまで考えていたいくつもの理由とは違っていた。

生きづらさから死にたかったのではなく、「生きていてはいけない」と信じていたからだった。

「自分はここにいていいのかな?」と遠慮がちにうつむいていた5才か6才の私を覚えている。

既に罪悪感いっぱいの心と向き合っていた。

その結果が「死にたい」だった。

そしてさらに根を辿ると、それは環境のせいだった。

親だ。

親の中に棲みつく暗い獣のようなものが、まるで私に取り憑いたかのように、その罪の意識を、私は受け取ってしまっていた。

親は私のおかげで少し楽になっていたように思える。

私にはそんな手応えがある。

ある程度、その暗くて重たい感情を私が肩代わりしていたのだから。

自分でも理解に苦しんでいた「問題を起こしてまで何かを訴えていたことや、最後まで親に優しくなれなかったそのわけ」が、ここにあったんだ。

今、親への愛憎の執着は消えつつある。

親のせいにするのは自分と向き合う段階では大いに利用すればいい、でもそれには終わりがある。

一方で、精神を病んだ人たちが、なんでも自分のせいにするそのパターンも理由を見抜けたら、もう終わり。

自分のせいで、自分の示した態度や、吐いてしまった言葉のせいで、他人が死んだのかもしれないなんて、自分の影響力がそこまであるとでも?

自我の罠にハマっているだけ。

ほんの数ヶ月前まで、「明日の朝こそ、どうか目覚めることがありませんように」と願って眠りについていた自分が、いつの間にか、「死にたい」から「助けて」まで変化している。

そして現在は、「助けて」にも疑問を持ち始めている。

ここから先は、もっともっと深掘りしなければならないけれど、自分を知れば知るほど、問題がそこで消えてしまうような気がする。

問題もないのに「助けて」は必要ないでしょう。

でも、まだ結論づけちゃいけないね。

それより、深掘りしなければ、だね。












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