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蜘蛛と赤ん坊


朝、腹部に妙な感覚があった私はトイレに向かった。その間にも何かを排出しようとしている、はっきりとした感触があった。
下腹部をぐーっと押されるような痛みとなんとも言えない虚脱感。
その"物"が便器の中に落ちた。
それを見るのは怖かった。何がそこにあるのか確かめなければ。ちらと視線だけ落としてみると真っ赤な血の溜まりの中に赤黒い五百円玉ほどの塊が浮いていた。
何かとんでもないことが起こったことはわかったが、脳内はぐるぐると空回りするだけで声も出せない。フリーズしていた。見た物が何かを理解することを拒否していた。
私はそれを瞬きもせずに見ていたが、やがてレバーを回した。
水流の中、ゴボゴボと消えていく真っ赤なそれを、そしてすでに水だけしか無い透明の便器の中をしばらく眺めていた。


私は小さな産院の診察室にいた。
院長である、おじいちゃん先生と言っていいくらいの医師に今朝のことを話した。
うーん…ちょっと診てみよう。
台に上がってもらえるかな?
ここで妊娠8週だと伝えられたのがつい昨日のことだ。
内診を終えた医師の曇った顔ですべて理解した。
その子はまだ人の形にもなっていなかったが、今朝のそれは出産だと言われた。
あの子はあまりにも早く外の世界へ出てきてしまったのだ。
それからほどなくして再び妊娠した私は、息子と娘、2人の子供達の母となった。


結婚してすぐに完成したばかりの会社の家族寮に入居していたのだが、部屋の間取りは最悪だった。おまけに結露もひどかった。
壁紙がめくれて、その下の壁にびっしりと黒いカビが生えているのを見て私は震え上がった。
そんな環境も後押しをしたのだが、何より息子が小学校にあがるタイミングも手伝って、思い切って一戸建てを探そうと言いだしたのは私だ。
渋る夫を説得して不動産屋さんにいくつか候補を案内してもらっていた頃にそれは起きた。


あれ?
まただ。蜘蛛がいる。
ここにもそこにも目をやると必ずちいさな可愛らしい蜘蛛が現れるようになったのだ。
今までそんなことはなかったのに。それとも気がつかなかっただけなのだろうか。
しかしどうしてこの家はこんなに蜘蛛が出るようになったんだろう。
私はそのたびに首を傾げた。
台所で料理していても、買い物から帰って玄関先に荷物を置いた時でも、ところかまわずやたら蜘蛛を見るようになった。
小さな小さな頼りなさげな蜘蛛なので怖くもなんともない。
なぜなのか考えることも無かった訳ではないが、さして気にすることもないだろうと頭から振り払った。


息子は幼稚園から帰ると道路渡ってすぐの公園で日が落ちるまで遊ぶのが日課だった。
家族寮には同い年や近い年齢の子供達が多かったせいもあり、毎日公園で暗くなるまで遊んでいたのだ。
その日も娘を抱っこ紐で抱えて、まだ公園で遊びたいとごねる息子をなだめながら部屋の鍵を開けて、ほら入ってと息子を入れ鍵を閉めた。
その時だ。
私は慌てて左右をキョロキョロと見渡した。
あっいない!大変だ!子供がいない!置いてきちゃった!
ああ、どうしよう!探さなきゃ!
衝動的にドアを開けて外に飛び出そうとした時にハッと我にかえった。
見ると息子は靴を脱いでいる。
娘はというと私が抱っこしている。
思わず数を数える。 
1、2…。
あれ?いや、いるじゃないか。
息子と娘。私の子供は2人だ。
はーと肩で息をする。
なんで足りないと思っちゃったのか。
胸の動悸がなかなか治まらない。
おかしい。
子供がいない?足りない? 
どうかしてしまったのだろうか、私は。
そのいなくなった、足りないという焦りはその後何度も何度も襲ってきた。




その話を電話で母に相談してみた。
ひとしきり話を聞いていたが、すぐにわかった気がすると言った。
水子だよ、それはきっと。水子??
流れてしまった子供が自分だけここに置いていかれると思ってるんだろう。
何しろそこで流れてしまったんだからね。
パパもママもお兄ちゃんも妹も新しいお家に引っ越していっちゃうってね。
お線香をあげて、"あなたを置いていかないから大丈夫だよ、安心しなさい"と言ってあげなさい。


半信半疑だったが、翌日母に言われたとおり、台所でお線香をあげてみた。手を合わせて呼びかけた。
あなたも一緒に新しいお家に連れて行くからね。
置いていかないからね。 
心配しないでね。大丈夫だから。


お線香をあげてから、あれほど出現していた蜘蛛はぱったり出なくなった。あちこち視線をやるたびに見ていたはずの小さな蜘蛛は消え失せてしまった。
いないいないと、いるはずのない子供を探すことも無くなった。
やはりあれはあの時流れてしまった子供の化身だったのだろうか。
たった8週間しか生きられなかった子供が、それほどまでに母に自らの存在を声高に知らせようとしたのか。
ここにいるから。
ママには見えてないけどちゃんといるから。


新しい家に引っ越しして1年ほど経った頃。
私は掃除機をかけていた。
開いたドアの向こうで子供がぱっと横切ったのが見えた。
一瞬でわかったのは小さな男の子でズボンをはいていたこと。
靴下が白だったように見えたこと。
そしてあの子が生きていたら丁度その子くらいになっていただろうということ。
慌てて追いかけたがその姿はどこにもなかった。


ぼく、ここにちゃんといるからね。
忘れないでね。
そう言われた気がしてならなかった。
わかってるよ、と私も答える。
大きくなったね。
またママに姿を見せに来てね。
待ってるからね。


あの日から蜘蛛はもう見ていない。



ちょいグロい描写もありましたこと、お詫び致します。
ちょっとだけ視えたり、感じたりする体質なのです。あの子は無事に天国へ行ったようで、もう姿を見ることはないでしょう。
お読みくださり、ありがとうございます😊

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