僕が家庭教師になるまで【後編】
はじめに
前回の続きです。
↓前編の記事↓
自分と同じように、家庭環境に悩む方の支えになることを祈っています。
本文
□親との対立
ー動画を投稿した後の変化について教えてください。
「友人からは激励のメッセージが何件も来ました。」
「ところが、自分の家族とは対立してしまいました。まず、母からの批判が来ました。曰く『もっと勉強が好きになったのはどうしてか』を語って欲しかった…と。また、コンプレックスである家庭環境がこうして第三者のもとに動画という形で露わになることに対してなにも思わないのか…と。」
「僕はこれに対する解答を持ちませんでした。僕がこのまま有名になって、自分の家庭環境が外に知られることとなり、僕が話した内容ににおヒレが付いた話が出回り、変な言われ方をするようになったらどうしたらいいのかー。そこに責任を持つことは難しかった。」
「恐らく、母は僕に対して勉強のノウハウを解説したり、その楽しさを共有するチャンネルを目指してほしいと思っていたと思います。ただ、それをやるなら『家庭教師』を名乗る意味はなく、そもそも他にいくらでもそういうことをしている発信者はいます。だから、自分の原体験となる家庭環境の話と、そこから家庭教師を目指すに至る繋がりの話は絶対に外せなかったんです。」
ーーあえて強い言葉を使うなら、そんな反対を無視して突き進み、結果を出して認めてもらう…という選択肢もありますよね。
「一般的なYouTuberなら、それで良かったと思います。実際、自分もそうしようとしました。動画投稿前に家族に指摘されたことを全く考えていたわけではありません。しかし、これに関しては反対されようと結果を出して覚悟を示すしかないと思ったのです。しかし、ここで自分を縛りつけたのはある矛盾でした。」
□矛盾
ーー矛盾ですか?
「僕はご家庭の家庭環境を勉強を通じてより良いものにするために個人で今までやってきました。しかし、肝心の自分の家庭環境はどうでしょうか?まず、父とは未だ和解せず、実家に帰っても会話1つしません。次に、母や妹からはこの動画の件で承認されませんでした。つまり、自らの手で自身の家庭環境を変える、そこに向き合うことをしていない状況だったのです。」
「自分の家庭にすら向き合えない人間が人の家庭環境を変えるような発信をするー。ここに強烈な矛盾を感じてしまいました。これが自分を縛りつけ、動画を撮れなくなってしまったのです。」
ーー確かに、広い範囲に発信するのに、自分の中で整理されていないことがあるのは厳しいかもしれません。ある意味で、自分や視聴者に嘘をつくことでもあると思います。
「そうですよね。それ以来何度も動画を撮っては編集をして…という作業を繰り返しました。なのにどうしてもアップロードができないんです。思い切って服装を変えたり、野外で撮影してみたり。その編集もメッセージが伝わるように工夫しました。それでも、どうしてもアップロードのボタンを押せなかった…。」
「ついにはカメラの前でもしゃべれなくなってしまいまして、そのまま動画を撮らずに蒸発しました。動画を2本上げただけで失踪しましたね(笑)大失敗というよりは、そもそも挑戦の始まる前に終わっちゃったなあと。自分を応援してくれる人には顔向けできなかったですね。情けない限りです。」
□失恋
「また、この時期に更なる転機が訪れました。元彼女との別れです。」
ーー今までは家庭環境のお話で、一見恋愛事情とはかけ離れているような印象ですが、どういった事情があったのでしょうか?
「きっかけは元彼女の実家に行った時のことです。元彼女は天真爛漫な性格で、人に愛され、人を愛して生きてきたということが一瞬で分かるような人でした。ご実家も絵に描いたような幸せを築きあげており、素直に羨ましかった。」
ーーここだけ切り取れば、良いことのように思えます。
「そうですよね。しかし、僕がこの光景を最初に目にした時、自分の頭に湧き起こってきた感情は、嫉妬と危機感でした。」
ーー詳しくお願いします。
「第1に嫉妬について。目の前に広がる光景は、自分が思春期、そして今もなお憧れているものでした。ここで思い出したことがあります。僕は2017年から2020年の4年間で早稲田大学応援部という組織に所属していましたが、翌日の応援のために朝早くに出発する関係で同期の家に泊めてもらったことがありました。その時に自分を惹きつけたのは、彼と彼のお父様の関係性です。少なくとも自分の前では、互いを尊重しているように見えました。その同期は僕の人生で出会った人間の中で1番優秀な人間ですが、彼の人格の基礎を築いたのは間違いなく彼のご両親と、彼自身の努力によるものだったのかなと。」
「それを見た僕の心に湧き上がってきた感情もまた嫉妬でした。心のどこかで『どこの家庭も父親とはうまくいかないもんだ』と考えながら過ごしていた僕にとって、その光景はある意味で1番見たくないものでした。当時はあのモヤモヤを言語化できていませんでしたが、今ではその感情が嫉妬に近いものだと理解できます。これと似た感情が、自分の中に湧き起こってきたのです。」
ーー2つ目の『危機感』についても詳しくお願いします。
「『この子と結婚したとして、僕は自分の子供にDVを働き、この絵に描いたような幸せを壊してしまう』と当時の自分は考えました。実は、自分の父方の祖父も良くも悪くも亭主関白だったんです。そして、自分自身も感情を抑えられずに高圧的な態度で人に当たってしまう度に自己嫌悪に陥ることがよくありました。家族で喧嘩する度に『パパに似てきたね』と言われ、図星であるが故に激昂した話もしましたね(前編の記事参照)。この”系譜”を断ち切れる自信を、当時の自分は持っていませんでした。直観的に、自分は元彼女のご家族を泣かせてしまうと思ってしまったんです。将来的に、夫婦喧嘩の最中に妻に『お義父さんに似てきたね』と言われたら、正直耐えられる自信がなかった。」
「よく『DVは遺伝する』と言われますが、厳密には『DVを無意識的に求める』というのが適切なのではないかと思っていて、家庭で暴力を媒介にしたコミュニケーション、つまり人と憎しみで繋がることに慣れていると、いざ人と愛情で繋がるときに違和感が生じてしまい、気付いたら自分に“慣れ親しんだ”暴力を介したコミュニケーションを無意識に求めてしまうのではないかと。当時の僕が元彼女と結婚したとしたら、物理的な暴力こそなくとも、高圧的な人を見下した態度でのモラルハラスメントという”違うようで実は同じ根を持つ問題”が表面化したと思います。」
ーーその後の関係性はどうだったのでしょうか?
「僕が勝手に『この子とは分かり合えないのかな』と線を引いてしまいました。本当は自分の暗い部分を見せるのが怖いだけだったのですが、当時はそうやって『分かってくれないだろう』と相手の責任にして心の負担を軽くしていました。自分の心に高い壁を築いて来る者を拒もうとしたんです。実態としては、その壁は少し触れただけで崩れる”砂上の楼閣”と言うべきものだったのですが…。」
「その後、元彼女からは『大久保の地元にも行きたい』『ご家族紹介して欲しい』などと、眩しい笑顔で僕に希望を投げかけてきました。それに曖昧な返答をするときのあの情けない気持ちは今も鮮明に覚えています。」
ーーそして別れとなったと。
「はい。家族や地元といったお互いのルーツを語り合うような場での会話がの全てがチグハグなものになってしまいました。最終的に亀裂を入れたのは、『将来的に私とどうなりたいと思っているの?』という痺れを切らした元彼女に対して、僕が何も言えなかったことです。」
「自分の頭の中では『この子を不幸にしたくない。だけど好き。けど自分の過去は言いたくない。でも分かってもらえるはずもない。』という気持ちが渦巻いていて、何から言葉にしていいか分からなかったんです。そして、元彼女はその沈黙を『何も考えていない』と取った。振られたのはその1ヶ月後。『何考えてるか分からない。ごめん、別れよ。』と言われてしまいました。」
「不思議なことに、悲しさはあまりなくて、むしろホッとしたというのが正直なところです。自分が1つの幸せなご家庭を壊さなくて済んだことに安心しました。早く振られたかったのだと思います。ただ、その一方で本当は自分が逃げたということも分かっていたんです。あの日はボロボロになるまで泣きましたね。色々ありましたが、シンプルに大好きだったので。」
□夜勤現場で爆発
ーーその後はどう過ごされたのですか?
「こうした矛盾と失恋によるストレスが少しずつ自分の心を蝕んでしまい、ある日爆発してしまいました。当時、生活費の足しにするために荷揚のアルバイトをしていたのですが、この夜勤の現場でそれが起こったのです。」
(荷揚ーにあげーとは工事/建築現場に石膏ボードやベニヤ板、フローリングの床材などをトラックなどから搬入する仕事です。)
「深夜の時間帯って、色々感情的に考え過ぎてしまうじゃないですか。で、部材を搬入している間に、色々な考えや過去のトラウマ、前述した挫折が思い出され、過呼吸になってしまったんです。詰所に搬送され落ち着いた後、このまま作業を続けるのは危険ということで帰されてしまいました。交通費も給料も出なかったです(笑)」
「帰されたところで終電もないので、公園でずーっと『このままじゃダメだよなあ』って考えていましたね。」
□和解への決意
ーーその時はどんなことを考えたのですか?
「初めて父との和解を考えました。このままいったら仕事も恋愛も、何も始まりすらしない、勝負すらできない、勝敗を決するステージに上がることすらできないと思ったんです。」
「少なくとも、『結婚式には呼べる』くらいの関係性は築きたいなと考えていましたが、正直何から始めたら良いかも分からない状況でした。ここから約1年、しんどかったですね。」
□挨拶から始まる
ーー何から始めることにしたのでしょうか?
「挨拶から始めました。実家に帰ったら『ただいま』と言う。そんな小さな会話すら、やろうとしたときには心臓がバクバク言って大変でした。父も僕に挨拶された時には驚いていましたね。最初の頃、僕は父の顔も見れずに2階に上がっていました。自分の背中に『おかえり』という言葉が投げかけられました。あの時のことはよく覚えています。こんな声で『おかえり』って言うんだなあと思いましたね。」
ーー徐々に会話の数も増えてきたと
「そうですね。プロ野球の話とか本当にしょうもない話ばかりでしたが。3ヶ月経つ頃には少しずつ世間話もできるようになりました。」
「この頃、自分の中にはある迷いが生じていました。『僕は父との和解を望むが、父は僕との和解を望んでいるのか…?』ということです。僕自信の和解への気持ちは自分の仕事や恋愛での挫折から『向き合わないとダメだ』と思って始めたものです。家族のことを思っての行動ではなかったから、自分のエゴでしかないと思っていました。向こうが僕との和解を望んでいるかが分からず、ここで迷いましたね。」
ーー迷いはどのように吹っ切れたのでしょうか?
「以前のお客様に相談に乗ってもらったんです。お父様に現状を説明し、僕が家庭教師に入った当時の心境の変化などを聞きたいとお願いしました。二つ返事で了承を頂き、2人で飲みに行きました。本当に色々なことを語ってくれました。具体的には以下のようなことです。
本当は塾に行かせるとか家庭教師を呼ぶ以前に子供とちゃんと話さないといけないのは分かってた。
けどそれをするのが怖くて「お金を出している自分」に逃げた。
正直何をしたらいいか分からなかった。
そんな時に知人の紹介で僕を紹介された。
勉強以前の家庭環境や子供との関わり方などを指摘され、正直「なんだこいつは」と思うことの方が多かった。
だが、僕は本気だった。少しくらいなら試してみてやろうという気になった。
試してみたら本当に辛く大変なことも多かったが、やり遂げた今は、勉強云々以前に子供を信頼できるようになった。
その信頼が軸になって今の子供との関わりがある。その信頼関係なくして、勉強しようといい大学に行こうと意味はないということが分かった。
最終的に、確信に満ちた表情でこう言われました。
この言葉が自分の背中を押してくれました。恐らく1人だったら途中で折れてたのかなと思います。」
□春の早慶戦
ーー最終的にはどうなったのですか?
「『和解した』と具体的に発言したわけではないのですが、僕の中ではある程度納得感を持てる形でやり切ることができました。その大きなきっかけになったのが、2023年、春の早慶戦です。」
ーー何があったのでしょうか?
「実は、僕は2017年から2020年にかけて、早稲田大学応援部という組織に所属していました。2020年がコロナ禍元年で、僕が4年生の時には内野席ではなく、外野席に応援席が隔離されてしまいました。そのため、内野席へのお客様の誘導や、応援部員がパフォーマンスを行う指揮台などの文化もこの期間では失われてしまいました。その時に新人として入部してきたのが、2023年の4年生です。」
「この4年生たちがコロナ禍で内野席の指揮台に立つこと叶わず引退した僕の代と僕の1つ下の代(2020年と2021年の4年生)に対して『春の早慶戦の試合前の企画として、一緒に指揮台でパフォーマンスをしませんか?』と声を掛けてきてくれたのです。『皆さんと一丸となって慶應を倒したいです』という彼らの心意気に、我々も賛同して学ランを着て指揮台に上がることにしました。」
(応援部員にとって指揮台とは、4年生になるまで幾多の試練を乗り越えて初めて登壇できるものであり、この上で応援をリードできるということは、この上ない誉れをされています。)
「この時各自で両親を呼んでもいいということになったんです。各部員は4年の頃に両親に晴れ舞台を満足に見せることが叶わなかったので、こぞって両親を神宮に呼んでいました。ここで僕は迷ったわけです。『父を神宮に呼ぶべきか…?』と。」
ーー最終的にはどうしたのですか?
「母経由で呼ぶことにした結果、そしたら父だけでなく妹も来てくれることになりました。嬉しかったですね(笑)」
「また、このステージで僕が学生注目を務めることになりました。学生注目というのは、応援部の学ランを着ているリーダー(LEADER:応援をリードする存在、の意)が、ステージの冒頭や締め、応援時の盛り上げを目的に自身の想いの丈を叫ぶというものです。」
ーー初めてご家族に見せる晴れ舞台、ということですね。
「そういうことです。この学生注目で何を言うべきか、迷いましたね。何を言うにしても『自己満足だけは絶対にしない』と決めていました。ここで言う自己満足とは、コロナ禍の辛さを訴えるということです。つまり『コロナ禍辛かった!神宮にお客さんが戻ってきてくれて嬉しい!現役ありがとう!』という旨の言葉を叫ぶことです。これをやってしまったら、同窓会に近い雰囲気になってしまうので、そうならないようにしようかなと。その場の雰囲気を『絶対慶應に勝とう』という空気感一色にするにはどうしたらいいかを最優先に考えました。」
ーー最終的にどんなネタを披露したのでしょうか?
「グッズ紹介をやりました(笑)実は当日までネタが決まらなかったんです。いざ当日になってみると、早慶戦用に作成されたグッズの売れ行きが芳しくないと。んじゃあ、自分が面白おかしく紹介すればいいんじゃないかな、という発想でした。本番3分前に考えたことなので、当日は全てアドリブ。何を言ったのかも覚えてません(笑)学生注目の尺は1分半でしたが、僕は5分近く叫んでいたらしく、大いに反省しています(笑)」
ーーステージ自体はどうでしたか?
「成功しました。現役の子やコーチや監督、かつて仲の良かった常連客の方にも褒めていただき、とても良い時間でした。」
「その後、僕は神宮へのお客様への誘導を手伝っていました。というのも、応援席に人が入るという文化が2020年に止まってしまい、その時の1年生が応援席復活の際の4年生。つまり、観客の方をスムーズに誘導するノウハウなどが継承されていない状況だったのです。そのため、コロナ禍前後の応援席を知る僕が誘導のお手伝いをしていたというわけです。」
「その誘導中に、後ろから自分の名を呼ぶ声が聞こえてきました。振り返るとそこには父がいました。父は涙声で『ステージ、カッコよかったぞ』と一言だけ僕に伝えてそのまま泣きながらどこかへ行ってしまいました。」
「僕自身はとても満たされた気持ちになりましたね。気付けば頬を涙が流れていました。あの時の幸福感を具体的に言葉にするのは難しいと思います。その後、実家に帰った際に家族に『ステージ来てくれて、ありがとうございましたぁ!!』とお礼を言いました。父は特に返事をしませんでしたが、嬉しそうに笑顔になっていました。あの顔は忘れられないですね。失礼承知で言えば、『お父さんってこんな顔して笑うんだ』という感じです(笑)」
ーーここで、自分のコンプレックスを乗り越えたと。
「正直言って、今も父と会話をするのはぎこちない空気になりますし、向こうが僕のことをどう思っているかも分かりません。実は、今も親子関係について“鎖”のように自分を縛っているものがあるなあと感じることもあります(今度改めてnote記事にします)。」
しかし、今なら過去の自分とは異なり、『愛情』について人よりもほんの少し深く語れるかなと思います。1年前は家庭環境の負の側面しか語れなかったが、今は『愛情と信頼に満ち溢れた関係を作ることがどれだけ人の心を救うか、それがどれだけ強い困難に立ち向かう勇気を生み出すか』ということについて語れるようになりました。」
「また、後日談になりますが、母から聞いた話です。父は僕の学生注目を聞いて客席で泣いていたらしいです。正直、泣くような内容ではなかったんですけどね(笑)」
「なぜ泣いたかというと、『悲劇の主人公ぶらなかったから』とのことでした。『アイツはコロナ禍の話をするわけでもなく、今どうこのステージを盛り上げるかだけを考えてる。アイツは凄いやつだ』と言っていたみたいです。自分と1番対立していた父が実は自分の意図を1番理解していたんです。これは本当に嬉しかったですね。ようやく、父のことを『お父さん』と呼べるなと思いました。」
「このとき、素で思えたんですよね。『あ、また家庭教師やろう』って。」
□目標
ーー家庭教師をやる上での目標をお願いします。
「家庭教師としては、家庭で勉強を家庭教師ではなく、勉強を通じてご家庭の家庭環境そのものにアプローチをする家庭教師になり、ご家庭の学習面に留まらず人生そのものへ正の影響をもたらす家庭環境を作るお手伝いをする、というのが全てですね。要はご家庭の“右腕”的存在です。」
ーー発信の目標もお願いします。
「行いたい発信は2つに分類されます。1つは、その過程で得られたノウハウをこうした記事で公開することです。」
「もう1つは『家庭環境に苦しむ人の心に寄り添い第一歩を踏み出す助けになる』というものです。こちらの方が個人的には大切にしたいですね。自分の家庭環境を世の中に発信すると、友人との話の中で『実は俺/私もさ…』と家庭関係の悩みを告白されることが多くなりました。意外とみんな、大なり小なり悩みを抱えているんです。これは、一見『育ちが良いなあ』と思った友人も同様で、多くの試練を乗り越えてきている人が、少なくとも僕の周りにはたくさんいました。」
「こうした悩みは世の中で言われる『親ガチャ』とは一線を画するものだと思っていて、むしろ金銭的に恵まれたご家庭だからこそ『お金を出す』という役割にある意味で逃げてしまい、お子様との信頼関係が蔑ろにされているご家庭も多いなという印象です。しかし、『お金を出してもらった』『大学まで行かせてもらった』という恩があるがゆえに、自分は恵まれていると言い聞かせ、周囲に悩みを吐露できない…。そんな人もいるのではないでしょうか?こういった人たちの悩みに真正面から応えるような発信を目指したいですね。話すだけで楽になることって、多いんですよ。その代表例がこうした家庭環境のお話なのではないのかなと。いずれは今やっている家庭教師の法人化だけではなく、”悩みを吐き出して楽になってもらい人生に向き合う一歩目へと背中を押すことができるカウンセリングサービス”を作ることを目指したいと思っています。」
ーー1度動画発信で失敗されたと思います。今度は納得するまでやり切ってくれることを期待しています。
「ありがとうございます。」
おわりに
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