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おままごと

 月曜日の朝、昔の自分の中にトリップしてしまった。それも仕事中に。デスクで端末を叩いていたか、書類を、めくっていたのか、よく覚えていないけれど、何かデスクワ-クをしていた途中に、いきなり幼い頃の自分の中にいた。

 ままごとをする私。床にラグが敷かれ、食器のようなものが並べられていた。たぶん私は3才から5才のあいだくらいだと思う。私は母をもてなしていた。向かいにいる母に、お茶碗を差し出しだす私。母は私の相手をしてくれて、差し出されたお茶を無言で受け取る。

顔が無表情 能面みたい                       こどもの私の目を通して、母の顔を見た大人の私はドキッとした。背筋が寒くなるような、そういう表情だった。大人だったら、遊ぼうなんて言い出せない、固い、冷たい顔
でも幼い私はおままごとを続けている。                

小さな女の子の私はこう感じていた。
おかあさん、たのしそうじゃない
わたしのことみていない                       ここにいないみたい
つまらなさそう

 大人の私の記憶の中では、いつも母は、笑ったり怒ったり、とても表情が豊かな人である。疲れて不機嫌な時、具合が悪い時だけ、無表情でうなるような声で、受け答えをする。だから今回のような表情の母は、アルバムの昔の写真の中でだけだと思う。私が気付いたのもここ最近のことで、アルバムをめくりながら、きれいな顔立ちなのに、どうして人形のような固い表情をしているのだろう、と不思議に思っていた、そうだ目が笑っていない。

 そのときの幼い私は、母といっしょにいたい、遊びたい、と思っていた。その感覚は、共感だと思う。

 実は昔から、私は女性のグル-プに苦手意識があった。あの雑談タイムに、何を話していいかわからない、話題に興味がない、ついていけない、場違いな気がしてしまう...
それで習い事が続かないこともあった。みなさん親切で楽しそうにしているのに、私って何で入れないんだろう...

 でもそのときの幼い私が感じていた気持ちは、まさに、この時の女性たちの気持ち、と同じ質のものだ、と一瞬でわかった。
いっしょにいたい。共有?共感?
私は、ちゃんと生まれ持っていたんだ、この感覚を。こんなに小さい時にはまだあったんだ。
それが衝撃的だった。

 今わかった気がした。
大勢の女性たちといて一番辛かったこと、それは自分に欠けているものがあるのでは?ということ。皆が楽しいと感じているものを、一緒に感じる能力が、私にはないらしい。さらにその能力は女性なら誰しも持っている、つまり私も持っていると、彼女たちに思われているようだ。だからよけいに言い出せなかった。でも黙っていることで彼女たちをだましているような気がして、どこか後ろめたかった。

幼い私は 母に対して、わたしのきもち、感じることによりそってほしかったのだろうか?

母は興味のわかない話題には「あっ、そう?」のひとことで おしまい。
いいも悪いもない。
どうでもいいの?私の言ったこと、感じたことは?
反応がない感じ、私に興味がないのかな?
つきはなされるかんじがしたのかな?
だから、幼い私が泣くと「よしよし」て抱っこしてくれておしまい、会話はなかった気がする。幼い私は、母に対して、自分の気持ちによりそってほしい、と願っていたのではないだろうか?

今の母はそんな昔のこと覚えていないだろう。最近は自分のことで精いっぱいだし。でもあのころに戻って、母にたずねてみたい、何を考えていたの?私のこと好きじゃなかったの?どうして私のことかまってくれなかったの?って。とても、とても小さなことかもしれない。でも私の中の小さな女の子が、知りたがっている。まだ気にしている。

今日もお読みくださいまして、ありがとうございました。芦邊春香でした。



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