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エメラルドは本物

 すべては一つの嘘から始まる。
 小さな嘘をそれらしくするためにまた小さな嘘をついて、嘘が重なって、いつしかそれがとんでもない量になっていく。自分がついた嘘をきちんと覚えて管理しておくなんてのは、人間のちっぽけな脳ではとても無理な話なのだ。
 だから私は、ほんの少しの嘘に大量の本当を混ぜておく。
「同級生で? 剣道部の主将で部長で? 帰り道が同じだったから? テスト期間とかに一緒に帰るようになって? 吹奏楽部の練習で遅くなったりしたらたまたま帰りがけに彼氏が待っててくれたりして?」
「卒業式で告白されてそっからず〜っと付き合ってるって〜?」
「いやぁ〜この感じはもう結婚秒読みですね〜いかがですかミゾタさん」
「そうですね、とある筋からの情報で、まだ確定ではないんですけれども今年中には、と」
「とか言いつつもう……三? 四? 四年は結婚しないのよね」
「でも確定じゃん。未来が安定してる人はいいわぁ」
「爆発しろ。爆死だ爆死」
 この幸せ者め、と脇腹をつつかれ、笑いながら身をよじる。
「いや、自分でもさ。私ロクな死に方しないんだろうなって思うよ」
 こんな嘘ばっかりついてちゃね。
 もちろん私に彼氏なんていない。「コバヤシさんは彼氏いるの?」と話題を振られたとき、お茶を濁すために「まぁ……」と誤魔化したのがまずかった。誰々どんなヒト出会いはドコ何年付き合ってるのときつい掘り下げを受けてしまい、嘘に嘘が重なって今日まできている。
 三年かけてついた嘘は、すっかり飲み会定番のイジリネタになっていた。でももう定番すぎて飽きられはじめている。イジリもだいぶ惰性になりつつあった。
 新しい話などない。こういうときは、変な作り話を増やすより話題ごと逸らすに限る。
「新歓なんだからさ、ミズノちゃんの話も聞こうよ」
「えっ」
 部屋の隅っこでちびちびウーロン茶を飲んでいた本日の主役、ミズノちゃんは、話題を振られてビクリと身をすくませた。
「おっ、新人さん。彼氏いるの?」
「ダメだよこれセクハラになっちゃうよ。『職場の上司に恋バナを強要されます』って知恵袋に書かれちゃうやつだ」
「か、書きませんし、いません」
 ミズノちゃんはおどおどとどもりながら、それだけ答えた。会話はそれで終わり。周りもそうだろうなと予想はしていたので、軽く話題は流れていく。
 ミズノちゃんは二週間前にうちにきた派遣の女の子だ。仕事はものすごく出来るのだが、性格が少し内向きで、会話がほとんどできない。どんな話題を振っても「はぁ」とか「まぁ」とか、あとは「そうですね」くらいしか返ってこないのだ。さっきの「書きませんし、しません」というのが、今まで聞いた中で一番長い返答かもしれない。
 結局、ミズノちゃんの話題が流れるとともに、お開きの時間になった。
 最初と同じ挨拶を交わし、それぞれが解散していく。新人歓迎会とは名ばかりのいつもの飲み会になってしまったが、疲れた大人にとっては集まって飲み食いする理由があればなんだっていいのだ。さて私も帰ろうとしたところで、
「あの……」
 控えめに呼び止められた。振り返ればミズノちゃんが、申し訳なさそうな顔で立っている。
「あぁ、帰り道わかんない?」
「兄は今どこにいるんですか」
「……兄?」
 意味が分からなかった。まさか顔に出ていないだけでかなり酔っているのかだろうか。自販機で水でも買ってやった方がいいかもしれない。
「オギワラ カズキのことですよね」
「え」
「先輩の彼氏」
 鋭く断定する口調で分かった。この子ちっとも酔ってなんかいない。そういえばウーロン茶しか飲んでいなかった。まったく正気で、私に問いかけている。問い詰めようとしている。
 なんのこと? と訊ねかえす声がみっともなく震えた。
「か、勘違いじゃ、ない、かな」
「前岡東高校の剣道部主将で部長、そして先輩と同級生なのは、うちの兄だけです」
「……」
 オギワラくんの名前を聞くのは久しぶりだった。高校の卒業式、校長先生が送辞で読み上げたのが最後だ、たぶん。
 ——みんなでオギワラ君の無事を、祈りましょう。
 三十秒の黙祷。今でも彼は見つかっていない。私のついた嘘では卒業式の日に告白されたことになっているけれども、そんなわけがないのだ。オギワラくんは卒業式に参加できなかった。
「教えてください。兄は今どこにいるんですか」
「あなたオギワラくんの妹さんなの? でも、名前が」
「母の旧姓です」
「……そ、そう……」
 私は嘘をつくとき、ほんの少しの嘘に大量の本当を混ぜておく。
 彼氏がいない、という嘘のために用意した「本当」が、オギワラくんだった。東京に就職して、あんな片田舎の端の端にあるような高校のことを知っている人がいるとは思わなかった。しかも身内だなんて。
 ミズノちゃんは耐えかねたように一歩こちらににじり寄った。だけどオギワラくんがどこにいるかなんて、私の方が聞きたいくらいだ。
「……知らない」
「でも、付き合ってるんですよね」
「嘘に決まってるでしょ。嘘なの。彼氏がいないって思われたくなくて適当に誤魔化し続けてる間に、どんどんどんどん話が膨らんで、誰かモデルが必要になったの」
 昔好きだった人ともし付き合えていたら、こんな風だったかな、という妄想をさも現実のことのように話していただけだ。それが身内に知れただなんて本当にイタい。胸も頭も痛いし何より私自身が最高にイタい女だ。誰にバレても実の妹にだけはバレたくなかった。誰かい今すぐ「押したら死ぬボタン」を開発してほしい。
「そうですか……」
 うつむいたまま、ぽつりとミズノちゃんが呟く。
 せっかく手に入りそうだったお兄さんの情報が、おばさんの妄言だったのだ。がっかりでは済まない。なんて可哀想なのだろう。想像すればするほど申し訳なさと死にたさがこみあげてくる。
「兄の部屋には、先輩の連絡先が残っていました」
「そうなの?」
「きっと兄は、先輩のことが好きだったんだと思います」
 オギワラ君のことを話すミズノちゃんは、どこかすっきりした顔をしていた。
「……そ、っかな。なんか照れるね」
 切り替えの早い子だ。オギワラ君もそういうところのある人だった。話している最中に噛んだり言い間違いをしたりしても、ちょっと照れてすぐ次の話題に変えていく。さっきまでのはなかったことみたいに、さらさらと流していく人だった。
「会社のみんなには、内緒にしといてくれる?」
「もちろん。私もその……行方不明の兄がいるとか、そういうことは知られたくないので」
「うん。黙ってる」
 軽い挨拶を交わして、別方向に帰っていく。少しびっくりしたけれど、明日からはまた日常に戻る、ほんの些細なアクシデントだ。
 と、思っていた。


 署までご同行願います。
 なんて台詞をドラマ以外で聞くことになるとは思わなかった。
 連れてこられた取調室とかいう部屋もドラマのままだ。テレビ越しでは伝わってこないコンクリートの冷たさと、蛍光灯の妙な薄暗さだけがドラマと違っていて、なんだか狭い部屋に閉じ込められているような感じがする。
「あなたの同級生のオギワラ カズキ君なんだけどね」
 くたくたのスーツを着た男の人からは、テーブル越しでもタバコの匂いがしていた。
「どこにいるのかな?」
 またこの話題だ。
 昨日ミズノちゃんに訊かれたばかりの質問が、今度はまったく知らない人から出てくる。そんなことがあるんだろうか。
「……いえ、知りませんけど」
「本当のことを教えてほしいんだがね」
「本当です」
「隠し立てしなくてもいいんだよ。もう時間の問題だから」
「……あの、意味が分からないんですけど」
「だからね。知ってることをそのまま教えてくれればいいんだよ」
「私が知ってるオギワラくんは、高校の卒業式の三日前に誘拐されていなくなりました」
 オギワラ宝飾堂は、うちの田舎にある唯一有名な場所で、よく東京から芸能人がお忍びでやってきていた。今日女優のダレソレを見たよ、こないだは芸人のナントカを見たよ。そんな話が週に一度か二度はあって、後には必ず、オギワラんとこでさ、と続いた。
 あの日、オギワラ宝飾堂は強盗に襲われて、商品のほとんどを盗まれてしまった。
 そして、大事な息子も。
 今でも未解決事件として年末に特番が組まれるような、大きな事件だった。強盗たちは顔を一切隠しておらず、監視カメラにもはっきりと映っていた。しかし、映像から特定された容疑者たちは、事件のあったとき全員、別の場所で働いていたのだ。
 取引先と会議中だったサラリーマン。手術中だった医者。授業中だった教師。全員が全員、複数の証人に確実に見られていた。
「彼の部屋から君の連絡先が見つかってるんだよ」
「高校のときのでしょう? そんなことで呼び出されても困ります」
「はい、どうぞ」
 ひらり。一枚の写真が上から落とされた。私の写真だ。どこかを見ながら、横断歩道を歩いている。もう一枚紙が落ちてきた。私の名刺だった。手書きで、個人の番号やアドレス、IDの類が書きこみされている。
 高校時代のものでは、もちろんない。今の。私の。個人情報だった。
「やつらの潜伏先に残されていたよ」
 話してくれるね?
 刑事さんの声が降ってくる。大きな体が影になって、机の上に覆いかぶさっていた。私は影の中で、おそるおそる自分の写真を拾い上げる。撮られた記憶はない。隠し撮りだ。名刺に書かれた文字は、自分の字だった。ピンクのインク、0.38ミリ。今筆箱に入っているペンで間違いないだろう。でもこんな名刺をオギワラくんにあげたことなんかなかった。
「ほんとに、知らないんです、私、」
「いい加減にしろ!」
 思い切り殴りつけられた机が浮いた。私の体もビクついて浮いたかもしれない。
「隠し立てしてももう分かってるんだ! あいつが自分の家に強盗に入ったことくらい! 言え! 今オギワラはどこにいるんだ! どうやって俺たちの脳を誤魔化してる!」
 怒鳴られている、というよりも、大きな音で鼓膜から頭の中をタコ殴りにされているような感覚だった。頭がくらくらする。何を言われているのか分からない。恐怖が考えることをストップさせ、ただただ身を縮まらせるので精一杯だ。
 言え、言うんだ、お前を共犯者にしてもいいんだぞ、早く言え、言うまで帰れないからな、テレビで報道させるぞ。思い切り怒鳴りつけたと思ったら、一呼吸の沈黙があって、今度は優しく話しかけられる。あんたが関係ないのなんて分かってるんだ。知ってることさえ言ってくれたらこのまま帰れるんだぞ。そして次の瞬間にはまた声を荒げて机を殴る。しばらくすると怒鳴る人が交代して、でも同じことの繰り返しだ。
 私は知らないとしか言えなかった。だって本当に知らないのだ。これも私がオギワラくんと付き合ってるなんて嘘をついたせいだ。自業自得。誤魔化さずに、彼氏いないんです、と言えばよかった。見栄をはって適当なことを言い続けたツケがこんな形でくるなんて。確かに嘘ばっかりついてロクな死に方しないだろうなと思っていたけど、だけどこんなことになるなんて思ってなかった。誰か。誰か助けて。誰か。
「コバヤシさん!」
 勢いよく扉が開き、急に部屋が明るくなった。いや、明かりはずっと蛍光灯のままだ。窓もないこの部屋が暗くなることはない。怒鳴られすぎて停止した脳が、情報をシャットアウトしてしまっていたのだろう。
 そこに立っていたのは、ミズノちゃんだった。
 彼女は私を怒鳴りつけていた刑事さんをきつく睨みつけると、つかつかと高いヒールの音を立てながら詰め寄った。
「コバヤシさんは何も知らないから捜査対象から外すべきだと進言したはずです」
「受けたつもりもないし納得できるわけもないしお前は捜査から外すと言ったはずだ」
「受けたつもりはありません」
「命令だ! 上の指示に従えないなら警察なんて辞めちまえ!」
 ミズノちゃんは刑事さんを無視して私の方に向き直った。
「行きましょう。任意同行ですから、心配いりません。家まで送ります」
 そう言ってほほ笑むと、さぁ、立って、と促される。正直、疲れ切って自分の足で立つのもしんどかった。肩を貸すか、せめて手を引いてほしかったが、ミズノちゃんは優しく私を促すだけで、指先ひとつ触れてくれなかった。
 エレベーターで地下の駐車場まで降りる頃、体を支配していた恐怖が、ようやくじわじわと解れてきた。周りに誰もいないところだという安心もあったのかもしれない。
「こ、こわ……」
 怖かった、と言うことすらできず、ミズノちゃんのスーツにしなだれかかる。
 父親に大声で怒鳴られたのさえ中学以降あったかどうかすら分からない。会社で課長やら部長やらが怒るときだって、露骨にイライラした喋り方になっても大声で怒鳴りつけるような人はいなかった。そういう、運のいい生活を送ってきた。
 自分に向かって悪意も顕わに怒鳴りつけられるなんて、本当にはじめてだった。
 いまさら心臓が痛くなってきて、なのに妙に鼓動が大きいから喉元の骨まで痛い。みっともなく手が震える。思わずミズノちゃんのスーツを掴む。柔らかくて少しくったりした、触り心地のいい生地だった。
(……ん?)
 柔らかく、少しくったりした生地?
 そんな生地のスーツがあるか?
 ミズノちゃんが着ていたスーツは、高そうな仕立てのいいスーツだった。リクルートや量販店のものじゃない。見て分かるほどなのだ、触り心地だって、こんなパーカーみたいなもののわけがない。手を動かすと、冷たい金属があった。そろりと指でたどる。
 これは、ジッパーだ。
 目を開ける。肌触りから想像できるような、紺色のパーカーに私は縋り付いていた。
 さっきと違う意味で心臓が大きく脈打つ。
 ゆっくりとパーカーから顔を離し、そばにいる人を見上げた。
 ミズノちゃんではない。
 どこか見覚えのあるような、でも面影くらいしか感じられない男の人がそこにいた。
 もっと若いころのこの人と、一緒に帰ったことがある。テスト週間で部活がない日、二人で自転車を押して帰った。
 彼は人差し指を唇にあて、しー……、と静かな音を出すと、ゆるりと微笑む。
「送っていきますよ、コバヤシさん」
 車のドアが開き、肩を押される。私が手を離した瞬間、男の姿は消え、目の前の人はまたミズノちゃんになっていた。


「人間の脳はね。電気信号で情報を処理するんだ」
 目の前に何かがあることを脳が認識するには、目から取り込んだ情報を電気信号にして脳まで流してやらなければならない。送受信がうまくできなくなると、人間は物をちゃんと見たり聞いたりすることが出来なくなる。
 たとえば特殊な電磁波を出して脳の電気信号を妨害すると、そこにあるものが目に見えなくなったりする。薬物依存による幻覚症状なんかは、脳に薬物が溜まって電気信号の送受信がうまくできないせいで起こるそうだ。
「企業秘密だから詳しくは話せないんだけど」
 ミズノちゃんの声で、その人は言う。その人の運転はとてもスムーズだった。
「結局、今私の隣にいるあなたって」
「オギワラ カズキだよ」
 次に聞こえてきた声は、男の声に変わっていた。ちらりと運転席を見ると、紺色のパーカーを着た男がこっちを見ている。目が合う。
「ひさしぶり、コバヤシさん」
 柔らかい声で言われて、微笑まれて。
 不覚にもどきっとしてしまった。
 久しぶりに見るオギワラくんの顔は、やっぱり知っているようで知らない人の顔だった。優しい目元も、高いけどちょっと丸っこい鼻も、照れたみたいに笑う口元も昔のままなのに、どのパーツも大人のものになってしまっている。それにまたどきどきして、顔が見ていられなくなって、前を向くとちょうど信号が青に変わった。
 オギワラくんが大人の男になっているのに、目が合うだけでどきどきして、私だけまだ高校生みたいだ。
 悔しくなってわざと窓の外に目を向ける。
「今、私の脳みそを操作してるってこと?」
「正確には、さっきまで操作してたんだよ。俺のことが、ちゃんと妹に見えてたでしょ。あのときは、確かに君の脳を操ってた。今はしてないよ」
「誘拐されてからずっと他人として生きてきたの?」
「誘拐? あぁ、世間的にはそういうことになってたっけ」
「違うの?」
 問い返すと、オギワラくんは違うよ、と答えた。さっきから妙に楽しそうだ。
「自分の家に自分で盗みに入ったんだ。ちゃんと防犯カメラに映ってみせて」
「うそ。そんな人映ってなかった」
 防犯カメラの映像は特番なんかで何度もテレビで放送されていて、私も何度も見ている。けれどもオギワラくんが映っていたことはないし、そんな情報も警察は公開していなかった。
「うーん、説明が難しいんだけど、脳を操作できる電磁波はカメラにも映るんだ。だから映像を見た人間の脳は、俺の顔を見ても俺の顔だと認識できない」
「そんなことって」
「あるんだよね。ま、これ以上はほんとに企業秘密かな」
「……でも警察の人にバレてたじゃない」
 刑事さんに怒鳴られたとき、一度だけそんなことを言っていたはずだ。あいつが自分の家に盗みに入ったのはもう分かってるんだ、とかなんとか。
「カメラに使ったカモフラージュが見破られたんだろうな。あの映像から、ちゃんと俺の姿を見られる方法を誰かが見つけたんだ」
「大丈夫なの?」
 相手は強盗犯なのに、気付けばそう口にしていた。もしオギワラくんが自分の家に強盗に入ったのだとしたら、盗んだ金額は億では済まない。当時未成年だったとしても絶対に自首して償うべき大罪だ。頭では分かっているのに、むしろ逮捕されるべきなのに、それでも目の前の彼が心配になってしまう。
「確かにまだいろいろ、不十分なところはあるんだ。騙せるのは視覚と聴覚と嗅覚までで、さっきコバヤシさんに触られたみたいに、直接的な接触があると全部バレちゃう」
「じゃあ」
「でもそれ以前に俺、妹のフリして警察にもぐりこんでるんだよ。なのにバレてない。あんな昔の技術一つダメになっても、全然平気」
 なに、心配してくれるの?
 くすぐったそうにオギワラくんが笑う。その笑い方は、高校のときと同じだった。
「……べつに」
 オギワラくんは相変わらず鼻歌でも歌いそうなくらい上機嫌で、企業秘密とやらをぺらぺらと喋り続ける。
 本当は、オギワラくんは自分が生きていることすら他人に知られたくないはずだ。いくら企業秘密とやらで他人の脳を誤魔化すことができるとはいえ、自分が生きていることを知っている人間が少なければ少ないほど安全なはず。警察だって、本物のオギワラ カズキを見つけるまで、彼が本当に生きているのかどうかは分からない。
 私は彼に触ってしまった。オギワラ カズキが生きていることを知っている。窓の外は、大通りから外れて、住宅街へと入り込んでいた。このまま郊外へ抜けていくのだろう。
 私の命はここまでということだ。
「ねえ、どこ行くの」
 分かっていても、つい訊ねてしまう。
 不思議と恐ろしくはなかった。ロクな死に方しないだろうな、とずっと思っていたからかもしれない。殺されるタイミングが今でよかった。もし一晩ぐっすり眠ったあとだったら、やっぱり怖くて、死にたくないと思ってしまうだろうから。散々怒鳴られて怖くて怖くて、もう怖いと思う心すら疲れ切っている今だからこそ、オギワラくんに殺されるならいいかな、なんてとんでもないことを考えられる。
「いや、こういうのは、あんまり人目につかないところがいいかなと思って」
「そりゃね」
 人に見られるところで人殺しなんてするわけない。けれどもオギワラくんは、公園の横で車を停めた。確かに人通りはない。でも公園と住宅街に囲まれたここは、決して人目につかない場所ではなかった。
「……昨日さ。言ったじゃん。『兄は先輩のことが好きだったんだと思います』ってさ」
「あぁ。……ああ!」
 言われてようやく気付いた。私が長年かけて作り上げた「オギワラくんと付き合っている」という嘘は、ミズノちゃんに知られてしまっている。でもミズノちゃんは、オギワラくん本人なのだ。つまり、私は本人の前で「結婚秒読みです」みたいな話をしてしまっている。
「わああ……あぁ……嘘でしょ……」
 今こそ『押したら死ぬボタン』の出番だ。連打すべきタイミングだ。けれどそんなものはなく、オギワラくんは昨日のミズノちゃんと同じ、真剣な目でこっちを見ている。
「うん。嘘。好きだったんじゃない。今も好き」
「へ?」
 オギワラくんの手が伸びてきて、そっと手を握られる。え、今、なんて言った?
「警察にもぐりこんだのも、カメラの映像を解析されて、セーフハウスが一個バレちゃったからっていうのもあるんだけど、昔俺と仲がよくて今東京にいるってだけで、コバヤシさんがマークされたからでさ。ほんとはコバヤシさんに張り付いて、何も知らない無関係の人ですって報告して捜査対象から外されるように仕向けたかったんだけど……ごめんね、失敗した」
「え、ちょっと待って。全然ついていけない」
 正直、脳に働きかけて視覚情報を操る話よりわけが分からない。
 オギワラくんが、私のことを好き? 今も? 架空の彼氏として周りに紹介していた人が、本当に私のことを好きだったんです。なんて、そんなこと、あり得るのか?
「ずっと後悔してたんだ。好きって言っといたらよかったって」
「え、え……? え?」
 まだおろおろしている私の手を強く握り、あいた左手でポケットを探る。ポケットから出てきた手には、指輪があった。マニキュア瓶くらい大きいエメラルドがついている。
「自分の家から持ってきたやつで申し訳ないんだけど……」
 そう言って、左手の薬指にそっと指輪をはめる。号数が大きすぎてぶかぶかだ。それにエメラルドの重みがすごい。
「結婚してください」
 重みが、すごい。

 

「いやぁ、ほんとに結婚するとはねぇ」
「正直ちょっと別れるんじゃないかと思ってたのにな」
 生中が二杯も開けば、話題は必ずここに戻ってくる。定番のイジリネタ。今日は新しい話題があるので、イジられはじめるのも早かった。
 私の左薬指には、シンプルなピンクゴールドの指輪が嵌っている。ネットで適当に買った。さすがにあのエメラルドを普段からつけるなんて無理だ。
「実は私、子供ができない体で。それでずっと結婚はどうするか悩んでたんだけれど、彼氏がそれでもいいからって」
「素敵〜!」
「ごめんねあたし達、知らないとはいえ結婚結婚うるさくてさ」
「いいのいいの。言いふらすことでもなかったし」
 これで子供ができなくても不審がられない。あと、式をあげないことにしたという嘘もついておかないと。嘘の量が増えるのはきついけれども、これ以上誤魔化すのは無理だとなれば、辞めてどこかに引っ越せばいい。
 オギワラくんとはあれ以来会っていない。連絡先も、オギワラくんは一方的に知っているだろうけれども私は知らされていなかった。もしかしたら死ぬまで連絡なんてこないかもしれない。それでも私はこれからも、嘘をついて生きていく。この嘘を、死ぬまでつき通す。
 私が知らないだけで、この店の店員がオギワラくんかもしれない。道ですれ違う誰かがオギワラくんかもしれない。一方的に、私が見つめられ続ける。
 嘘をつくときは大量の本当を混ぜておく。
 ずっとそうしてきたけれど、今となってはそんなことはもうできない。
 長年付き合っていると嘘をつき続けた架空の恋人が本当の恋人になって、戸籍上は無理でも事実婚までするなんて。私がついた嘘よりもよっぽど嘘みたいな話だ。信憑性を高くするために本当のことをブレンドするのであって、嘘みたいな本当の話では意味がない。誰も信じてくれない本当のことを話すくらいなら、ひどい嘘を吐き続けた方がマシだ。
 どちらにせよ、もう前の日常には戻れないのだ。
「ミズノちゃん、仕事できる子だったのにすぐ辞めちゃって残念だったね」
 同僚がビールを飲みながら言うのに相槌を打ちながら思う。
 私ってロクな死に方しないんだろうなぁ。


(※文学フリマ京都発行『お脳の煮こごり』収録作品)

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