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恐れず自分の意見を伝える為にはどう考えたらいいか?

僕は仕事にしても趣味にしても、何かしらを発信する環境にいることが多い。

そのため、自分から生まれた意見への評価を貰うことも多く、その評価を自分という人間に対するものであるという認識で生きてきた。

そして、そんな経験を長くしたことで、意見に対する評価をおそれ、自分の意見を引っ込めてしまいたくなる衝動が生まれる場面に出くわすようになった。

持っている意見は言った方が議論も活発になり、様々な視点が話すことができるため、引っ込めてしまうメリットはないに等しい。(相手を傷つけるためだけの意見はよくないが)

そう分かっていながらも、引っ込めてしまうことがあるのはなぜだろうか。

思うに、「自分の意見」だと捉えていることが、そもそも問題なのではないかという気がしてくる。

匿名の意見がスタートであれば、全員が活発に議論し合うという構図は何度も見たことがある。

では、そもそもなぜ「自分の意見」だと考えてしまうのか。

これをスタートとして、考え事を進めていきたい。

人には自分に関わることについて、スポットを当ててしまう傾向がある。

例えば、

カクテルパーティー効果というものがあり、周囲がどれだけざわついていたとしても、自分の名前を呼ばれたりすると、その情報に意識が向いてしまう。

思い返せば、学校生活を行っていたとき、誰かが自分の話をしていたら、それが良い話だろうと悪い話だろうと、ついつい気になってしまった記憶がある。

これは、「名前」を自分の所有物として捉えることで、無自覚に「名前」に自己投影しているのだと思う。

例として名前を使っているが、名前だけに収まることではなく、自分が所有していると思っているモノであれば同じようなことが発生する。

例えば、

荷物エリアにカバンが溢れていたとしても、自分のカバンはすぐに発見できたりする。

日頃から特徴をよく見ているから見つけやすいということもあるだろうが、探すときには、○○の特徴を持つカバンではなく「私」のカバンとして探すことができる。

加えて、名前と同様にすぐに見つけられるだけでなく、一部自己を投影したりもする。

カバンが自分自身というわけではないけれど、持っているカバンを褒められれば嬉しいし、貶されることがあれば悲しくもなる。

あくまでカバンについて言っているだけで、別にそれは自分について言われてはいないのだが、自分のことを言われているような気がしてしまう。

そんな時に、どんな心情の変化が起こっているのかを想像してみる。

「このカバンかわいいね」と誰かに言われて嬉しいというのは、いくつかの感情が入り混じっているように思う。

ひとつは、自分の一部としてカバンを捉えることで、カバンがかわいい=自分もかわいいと感じられること。

自分の一部として考えているので、当然その部分が褒められるということは、全体としての自分も褒められたという感覚になる。

筋トレを頑張っているマッチョなひとに、「よい筋肉だね」と伝えれば、自分の一部を褒められた本人としては嬉しいのと同じだ。

筋トレとカバンは異なるようにも感じるが、たどり着くまでの過程が異なるだけで、こだわりを持って行動するという意味では同じだろうと思う。

ふたつめは、人からかわいいと思われるカバンを選ぶことが出来る感性が自分には備わっていると感じられること。

世の中には、センスが良い悪いとか、おしゃれやダサいという価値観があり、その人がどういう過程でそれを選択したかは置いておいて、人の判断をするということもある。

「かわいい」や「おしゃれ」と言ってもらうことで、結果として人に認められる選択をできる人間だという証明をすることができる。

本来的には自分から独立しているはずの所有物を褒められるという事象のはずだが、自分の価値観や行動の影響からと考えて、自分ごと褒められたような気持ちになるイメージだ。

こうやって考えていくと、所有物と自分自身は独立しているのではなく、入り混じった合成体なのではないかと思えてくる。

その人が所有している物と、その人の価値観を結び付けたくなってしまう。
ダサいものを持っている人は感性もダサく、おしゃれなものを持っている人は感性もおしゃれであるというような感じだ。

では、冒頭に戻り、意見の場合はどうなるだろうか。

まず、意見についても名前のようなカクテルパーティー効果が現れるのかというところを考えていきたい。

これは現れるというのが経験的に思う所だ。

クラスや職場で自分の意見を発表し、一覧として並べられた時、これが自分の意見だと他より早く見つけることができる。

自分から生まれた意見なのだから、これは自分の所有物なのだという感覚が無自覚にあるのだろう。

加えて、先ほどのカバンと同様に、決して自分が褒められたわけではないが、自分から生まれた意見を褒められると、自分が褒められたという気持ちを抱く。

名前やカバンと違って、明確な形があるわけではないのだが、意見に対しても同じように所有物という感覚をもつ。

褒められた時はそれでいいのかもしれない。

しかし、実際には、批判されたり、自分が期待したものとは異なる評価を受けるなど、所有物にたいしてネガティブな反応を受け取ることもある。

そうした時には、所有物に与えられたリアクションは、すべて自分にも同等のダメージを与えられる。

カバンがダサいと言われれば、自分の価値観がダサいと認識してしまうし、意見が幼稚と言われたら、自分が幼稚であると認識してしまうことになる。

それが本来的にはダサくも幼稚でもない可能性もあるが、そうは捉えられなくなってしまう。

しっかりと所有してしまうと、どうしても自己を投影してしまう。

ならば、所有しなければいいのではないか。

偶然、自分の口から生まれてきたから、自分のものような気がしてしまうが、別にそれが誰の意見だからいいとか、誰の意見だからダメとかそういう話はないはず。

話を深めていく際には、どんな前提でどんな過程を踏んで、その意見が生まれることになったのかという話は聞かなければいけないかもしれないが、

だからと言って、自分の言葉だからと言っても、必要以上に責任を持つ必要もないだろう。

なぜなら、判断や決断は自分一人ではなく、その場にいる全員で行っていけばいいからだ。

あくまで発言は出発点に過ぎない。

そう考えていくと、一例だが意見の捉え方が見えてくる。

意見をオープンソースとして捉える。

自分も他人も好きに介入することができ、同意出来たり、価値観が沿わない部分があるなど、好き勝手に話をすることが出来る。

そんな状態がお互いのコミュニケーションとして健全なのではないかと思う。

たしかに自分から生まれてきた意見ではあるものの、必要以上に自分の所有物として固執することなく、対話のベースとして考える程度のイメージだ。

とりあえず、「真ん中にボールを置いておきましたよ」くらいの軽い気持ちが丁度いい。

ものすごく大切にしているものだとすれば、目の前で形を変えていくことに抵抗があるかもしれないが、変わったからと言って無くなるというわけでもない。

その場ではそういう変化をしたというだけの話で、自分の大切にしていた意見をみんなが批判したくて変えたというものでもない。

もし違いが生まれたのだとすれば、後でひとりになった時に元々自分が持っていた考えと変化した後の考えを並べてみて、どんなところの違いがあるのかを比較してみるのも面白いだろう。

そうすると、もしかするとその場では生まれなかった第三の考えが生まれるかもしれない。

そうしたら、またそれを利用して、議論や対話を進めていくのよいだろう。

自分の意見は、自分だけのものではなくて、オープンソースでみんなものとして考える。

そんな柔軟性を醸成していくことで、必要以上の固執からは抜け出せるのではないかと思う。

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