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読書録:『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』(2)~コナトゥス~

メディアに取り上げられるような世間では、芸能人の過剰な謝罪の一方で、政治家は責任をあいまいにしていたり、責任をめぐる違和感は大きい。また個々人が働くうえでも、自分の作った小さなバグがコピーさればらまかれ、
思ってもみないような事故になるのでなないか、その責任はどうやったら果たせるのだろう、といった不安がつきもののように思える。

個人的には、失敗やそれによって生じる責任、責任をとるために使わなければならない自分の労力・時間、というものに恐れをなして、できるだけ何もしない傾向にある。

2020年はコロナ禍で仕事も在宅勤務になり、休日も外出しないことが増え、生来の籠り気質が強化された年だった。
安心安全な一人暮らしの部屋で、好きなことを好きなようにやって、好きなだけダラダラして、、という暮らしはとても楽だ。つまらない、というわけでもない。今日明日の満足のためにはそれが一番のようにも思える。

だけど、どこからともなく「一生このままではダメだ」という焦りが顔を出す。自分はいったい何を求めているんだろう?? そんな問いはありふれたものだけど、やっぱりいつもそれを考えている。

この本では、スピノザの「コナトゥス」という概念がたくさん出てくるけど、とても面白い。

p.267
スピノザの哲学の基本ラインで考えると、コナトゥスという、人間の心身を貫いているある種の必然性にうまく従うことが能動性へと至る道となります。そして、能動性の割合が受動性の割合より増えれば増えるほど、人間は自由になっていく。スピノザは、自由というのは、束縛がなくなることではなくて、自分の力や本質が十分に表現されることとして考えました。
p.244
コナトゥスという、生物がみずからを維持しようとする力がある。それは期待も予測も含んでいて、それらとのズレがいわゆる刺激であり、他なるものと考えられる、と。
p.248
個体が自分のまとまりを維持しようとする力がそもそもあるんだと。そして、それに対して外的な刺激が起こる。そうすると---『中動態の世界』で紹介したスピノザ哲学の用語を使うと---変状する。その変状のなかに指しゃぶりも含まれるし、欲動もそこから出てくる。
p.271
もしもコナトゥスだけが原理なら、人は衣食住さえ足りていたらそれで満足のはずです。コナトゥスの命じるままに恒常性が維持されていたら、退屈を感じ、わざわざ外に出て傷だらけになったりしない。それなのに、わざわざコナトゥスを乱すような振る舞いをするのは、なぜだろう。

自分に引き寄せてかんがえると、かなりいい感じに恒常性が保たれた一人暮らしの部屋から、どういう期待や欲動をもって出ていけるか、という今とても興味がある問題だ。(『暇と退屈の倫理学』を再読したほうがいいかな?)

この話の流れでは、次のように言われている。

p.273
かつてコナトゥスを乱され、踏みにじられた記憶が大きければ大きいほど、人は簡単にそれを忘れたり慣れたりすることができない。多かれ少なかれ、コナトゥスを乱される記憶は、私たちのなかにたくさんあります。いわば私たちは傷だらけなのです。そして乱された記憶が傷として残る。その疼きを取りたくて人は新たな傷を求めてしまうのではないか。

そしてこういうパターンの行動は、コナトゥスを満足させるような“消費”にはならず、なにも受け取らないまま行為が加速するような“浪費”的な行動となってしまうのだと。

うーん、そうかもしれない。
でも今の私は過去の傷を忘れるために過剰に行動しているというよりは、新たな傷が怖くて(というよりは面倒でかもしれない)行動できない、それを乗り越えてまでやる価値のある本当にやりたいこと、が何かわからなくて悩んでいるように思えるな。

それに対してもいくつかヒントになることが書かれているように思った。

p.158
当事者研究を行う中で思うのですが、人は、自分の身体がもつ必然的法則をじつはよくわかってない。特に身体的な少数派、なかでも見えにくい障害をもつ少数派は、自分のコナトゥスがどのようなものか、周りから見えにくいだけでなく、自分にも見えにくい。だから、つい、他の人と同じような行動規範や欲望を自分にインストールしてしまう。けれども、それは自分の規範でも欲望でもないわけです。だから、自分の内側からくるコナトゥスと、外側から強いられる多数派向けの欲望や規範が、自分のなかで衝突して、さまざまな苦悩が生じる。
p.298
綾屋さんの研究によると、綾屋さんの意識のレンジは広くて、彼女はたくさんの傷のデータをストックしてきた。しかし次々に現れる他者はそこまでではない。当然、そこには少なくない差異が生じるわけです。しかし彼女は、当事者研究によってまた別の他者に出会うことで、意識のレンジが似た仲間に出会えたと言います。まったく同じではないにしても、同程度の意識のレンジ、誤差への敏感さをもつ他社と仲間になったわけです。彼らと「そういうことってあるよね」という相互の確認作業、「たしかに世の中そうなっているよね」、「あなたってそうだよね」、「私ってそうだよね」というコミュニケーションを分かち合うことで、さらに自伝的な記憶というものが整理され、安定したと書かれています。
p.300
いわゆる自己感を持って生きていくことができるようになるためには、他者との関係やかかわりという社会性の問題が関係するということです。そして、社会性の生成には非常にデリケートな条件があり、その条件が満たされやすい人と満たされにくい人がいる。

たくさん付箋を貼ったけど、ここが今回のわたしの読書のクライマックスだろう。思えばここ何年かは、どうやって自分とは異なった他者に出会い、どうやって自分にはないものに出会うか、ということを重視してきたように思う。自分にないものにこそ興味がわく、というのも本当だ。

だけどその一方で、自分と似た人を求める機会はあまりなかったように思う。今の自分にはないものを求めて、できそうにないと無力になっていたのかもしれない。「やってみたい」「できそう」と思えるためには、自分に似たところのある誰かが、同じようにやっていたり、その人が楽しそうにしていたり、というのをもっと見る必要があるのかもしれない。

平均的な人間として育っても、いつの間にかみんなバラバラになっているもの。同じと思えることは段々減っていくかもしれないけど、共通点をみつける、というのは良いライフハックになるかもしれない。

いいところを見つける、じゃなくて共通点でいいんだ。
まったく一緒の人間もいないけど、まったく共通点がない人間もきっといないだろう。

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