【ほぼ日妄言】《匂いフェチと身体とフィクション?》

かなり纏まってない。

匂いフェチなる趣向の人々の存在は多種多様なフェチズムを自己表明する現代そんなに珍しい話でもなくなった。

ここで生殖判断における「匂い」の言説がある。
『主観的に嫌悪感のある匂いの体は遺伝子が近く、好意的な匂いは優良な生殖対象である。』
という常套的説だ。

つまり僕は「匂いフェチ」は「生殖本能」なのか、ということを考えたい。

で、匂いと身体の話である。

現代の人々は大抵みんな良い匂い、或いは無臭である。
体臭は寧ろ病の兆候であり不潔の象徴として蔓延る。

現代の我々は常日頃「清潔感」を「果たして“清潔”とは?」レベルで徹底し、消臭除菌ファブ/シーブ・リーズにリンスーシャンプー化粧品で「美しく清廉な匂い」を身に纏うのだ。

そう、我々の身体は「身体由来の匂い」は最早掻き消され、「上辺的な匂い」を纏っている。

ここで問題になるのは「匂いフェチ」のフェチズム対象は「生活臭」なのか「身体臭」なのか、ということだ。

我々は我々の日常の生活で自身らの身体由来の匂いを、オーガニックなモノから工業的な様々な外的なモノで上書きした「生活臭」を放っている。

遺伝子云々の話であれば、身体臭のみが生殖判断の手段として機能するはずだ。
しかし現代において身体臭を認識するためには一手間二手前かかり、相手によっては容易ではなかったりする。

そんな状況であれば生活臭に匂いのフェチズムが見出されている可能性は往々にして有り得るのだ。身体由来の匂いでないものにフェチズムを感じている可能性が有り得るのだ。

ならば「生活臭フェチ」は「生殖判断」足り得るのか?

前提言説に従えば、生殖判断足り得ない。生活臭は遺伝子の類似性判断装置として機能しない。

身体論者ならば、身体的接触こそが現代に重要なのだと主張するならば『「身体臭」に触れよ』『「身体臭フェチズム」』と反社会的に唱えるべきだろう。

だが現代、そもそも夫婦という形態が生殖目的の関係とは一概に言うことができなくなってきている。
つまり、身体的接触がなくとも、〈生活臭が愛せるならば〉精神的に文化的に愛し合うことができるならば、えっまぁオールオッケーじゃね?って話だ。

そういう主張があっても僕は否定できない。
身体尊重者の根拠となる遺伝子言説だって、どこまで正しいのか僕には分からないのだ。
どちらも常套的言説にすぎず、フィクションに感じてしまうのだ。 

やー、しかし僕は身体が恋しいのだ。あぁ、なんというフィクション。。。

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