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お弁当とかだったら良いよね

季節は夏。しかしながら玄関からほど近いラックには防寒に適した上着がみっしりと掛かっており、湿り気を帯びた生温い風が吹いたくらいでは少しも揺れはしない。

購入当初は「外出から帰った時、一時的にコートをかけて置けると良いな」と思っていたラックだ。だから、なるべく余白を確保して、普段は隙間のあるエリアにしておきたかった。オフィス街のベンチみたいな感じ。

しばらくすると、その余白はそれほど頻繁に使われるわけではないが故にクローゼットの中で肩身の狭い思いをしていた厚手の上着たちの避難場所になった。外から帰ってきたコートを掛けるにも、既に居るものたちをグッと押し込んで隙間を作らなければならない。いつしかクローゼットには厚手の上着のためのエリアは無くなって、もうこのラックから帰る場所は無くなった。

余白を余白のままにしておくことがどうしても下手だ。隙間があればその隙間に合うものを見つけて差し込み「収まりが良い感じ」にしてしまう。その場が終始「何か役割を果たしている状態」にしておきたい。その結果、差し込まれた使用頻度の低い物によって場が固定化され実質的に機能不全に陥ってしまったとしてもだ。

お弁当とかだったら良いよね、空いてる隙間にシャウエッセンもう1本詰めちゃお、みたいな。ブロッコリーの茎をスポッと差し込むとボワボワの部分がいい感じに隙間埋めてくれてるね!的な楽しいやつ。

とはいえ、居住スペースはお弁当ではないので楽しく埋めれば嬉しい、というわけではないことは分かっている。眼前にはある程度の空間が開けている方がストレスが少ないと聞いたこともある。それでもこの有様なのは、つまりはぼくにとって余白を管理しスッキリと使いこなすよりも、物で埋めて蓋をしておいた方がハードルが低く、楽なのだろうと思った。

楽している場合ではない。弁当も詰めたあと、食べることで完成されるはずなのだ。となると住居スペースも然り。書いててなんとなくわかってきました。「物を保管すること」と「生活で物を使うこと」を明確に分ければ良いのだな。

そのためには「物を保管できる場所」の確保が必要だ。物が置ける余白をこの家のどこかに見つけなければならない。見つけたら速やかに物を差し込み、保管を開始しなければならない。このままでは、余白を余白として使うために余白に物を置く、とのフェーズから一向に抜け出せないまま今年の冬が来てしまう。

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