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「しらんけど」って何だよ

流行り言葉が飲み込めないのは、私が歳をとったせいか。少し前からよく見聞きする「しらんけど」という言い回しが、どうにも受け入れがたい。

言葉を選ばず気持ちを述べれば

「知らないなら黙ってろよ」

これに尽きる。

しかし私自身もまた、この言い回しをする人が何を思っているのか、どのような境遇がその発言へと至らしめたのか、そのあたりの事情をよく知らない。知らないけれど、知りたいわけでもない。乱暴に言えば知ったことではない。

だからといって「しらんけど」の度に眉を吊り上げたり喧嘩腰になったりするのも格好がつかない。というわけで、少しだけ歩み寄ることを考えた。

何故それを付け加える?

「しらんけど」は文末に付け加える形式で使われる。それ以外の用法は今のところ見聞きしたことがない。少し調べると、以下のような記述を見付けた。

文末に付けて、断定や責任を避ける、あいまいな表現をした言い方。責任逃れというだけでなく、全てをひっくり返すような言い回しが若者中心に話題となった。関西圏だけだなく全国的に使用する人が増えた。

「日刊スポーツ」より一部抜粋(原文ママ)

断定を避ける

断定を避けるというのは納得できる。何でもすぐに断言する人を私は信用しない。かといって一切断言しない人は更に信用できない。要するに何事にもバランスが重要ということである。

それはともかくとして、断定を避けたいのであれば別な言い方を考えるべきではないかと思ってしまう。この「しらんけど」は、断定を避けるにしては余りに投げやりではないか。

例えば「~ではないだろうか」とか、「~だと思う」、或いは「〜じゃないかな」などであれば断定を避けながらも自身の考えを述べているのだと一目でわかる。

しかし「しらんけど」をされてしまうと、途端に「じゃあ何なんだよ!」と拳を握ってしまうではないか!!

責任を避ける

そうなってしまう理由は恐らく「責任逃れ」の意志が見え隠れするからだ。自身の言動に責任が持てないのならば、最初から何も言わなければ良い。軽い気持ちの一言が、どこかの誰かを傷付ける。励ますつもりで声をかけたが、却って重圧を与えてしまう。こういった経験は誰にもあることだろう。そういった場面で、自らの発言に対する責任を果たせるかどうかが問題だ。

責任を感じて反省できる人間ならば、きちんと謝罪して関係の修復なり好感度の維持なりができるだろう。そうでなければ、現代社会に於いては所謂炎上という状態に発展し、取り返しのつかない事態となる可能性もある。尤も今はどんな小さな失言であっても即座に炎上しうる世の中ではあるのだが、炎上具合や鎮火までの時間に差が出るのではないだろうか。

記憶に新しいのは某音楽グループのミュージックビデオを巡る騒動だが、早々に本人達が声明を出し、反省の態度を示したことで極度のイメージダウンには至らなかった(最も重要な国外からの評価については未知数だが)。

何よりも炎上しやすい環境であるSNS上では、責任の追及を逃れる意味を込めて「しらんけど」と付け加えてしまいたくなる気持ちもわからなくはない。それでも「だったら何も発信しなければ良いのでは?」と思ってしまう。

そもそも何で気になったのか

私はこの「しらんけど」が流行り始めた頃から、どうしても違和感を拭えなかった。「なんだそれ」と思っていた。ただそれは、流行に乗れない年齢となった己の僻みに近い感情だと思うようにしていたし、そういったことにイチイチ突っかかる自分が幼稚だとさえ思っていた。

では何故今更掘り返すようなことをするのか。

先日、ある人物が長々と話をし、「~なんじゃないかな」と締め括った。そこまでは良かった。しかし、こともあろうに「しらんけど」を付け加えたのだ。前述した「断定を避ける」に加えて「責任を避ける」までやってのけたのだ。黙って真面目に耳を傾けていた私の身にもなってほしい。が、なってくれるような人間ならば、最初からそんな無責任な発言をしないだろう。

結局…

そういうわけで、真面目な分析をするのもナンセンスな問題だと序盤の方で気付いていたので、真剣に考えるのも限界になってきた。結局のところ流行は流行なので、「ふーん、そうなんだぁ」くらいに思っておいた方が良いのではないだろうか。

しらんけど!

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