「障害者」という言葉による壁

私が持病を発症したのはもう十数年前のことだ。これはいわゆる障害者として認定される病気だ。

ところで、最近になって障害の手帳を取得した。しかし、障害者の手帳をもらうということで、家族からはあなた障害者なの? あなた普通なのに、それって一般の本当に困っている障害者に失礼じゃないの? と言われた。

そうかとは思ったが、私も困っていないわけではなかったので、結局取得をした。

支援を受ける中で、日常生活でそのように困っているなら、支援を受けても大丈夫ですよ、と言われて、ようやく安心した。


「障害者」という言葉。

グサリとくる人も中にはいるのだと思う。

自分や家族がそれに該当すると言われようものなら、否定する、こともあるかもしれない。

「わたしは障害者と認めない」と。


障害者と認めないということは、もし本当に必要な支援があっても、それを受ける機会もないということだ。

私の場合は、支援を受けてありがたかった。


問題は、「障害者」というグサリとくる言葉への反発、偏見、なのかな、と思った。

「障害者」と扱われるのが嫌で、日常生活に困っているのに、一人で悩んでいたり、家族だけで抱え込んでいたり。

社会に、もっとフラットでラフな、たとえば個性のような気持ち的な扱い、社会からのとりこみ方になればいいのかな、と思う。


本当に困っている時は、人の手を借りても良いと思う。少しだけ困っている時は、自分でもできる対処方法、それを知る機会を持てるだけでもかなり苦しみは軽減される。

ちょっと気軽に、だれかに相談できるだけでも、かなり助かる。客観的に見てもらえる機会は大切にしておきたい。


そういうことで。

「障害者」と「健常者」で、へんな壁をつくるのはちょっと賛成できない。

また、「健常者」を普通の人、と言うことも、ちょっと賛成できない。だって、「障害者」にも普通に心があるのだから。


「障害者」という言葉による壁は、もう少しやわらかくても良いと思う。

おそれいります。いただいたサポートは、1/3を自分の楽しみのために。1/3を家族のために。1/3を世のため人のため誰かのために。そこに1/3を上乗せして、1/3を未来の創作のために。使わせていただきます。三方一両損をイメージしながら、使わせていただきます。