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他人を思いやるとは

 人は現実的に社会で生きている以上、他人の存在を考慮して自分の振る舞いを決めなければなりません。しかしそれはときとして、自分を抑圧することにもなります。これはある程度仕方のないことではあります。しかし、そればかりだと苦しくなってきます。それは、他人との関係で自分の存在を見出そうとするからです。

 私たちは大勢の人たちとの関係性をもって、生きていかなければいけないことは事実です。しかし、しばしば人はそれだけが生きるすべてであると考えてしまいがちです。それでは自分の存在というものが、周囲に翻弄されることになります。例えば企業で規則に縛られ、命令にただ従わなければならない立場の人や、家庭で日々の日課に追われる主婦などが感じるようなことです。それで一定の評価を得られているという実感があれば、まだよいのですが、やがてそのうち自分とはいったい何なのか、自分の価値とは何なのかがわからなくなってしまうという事態に陥ってしまうこともあります。

 まずは自分というものに意識を向けなければなりません。自分があってはじめて他人を考慮できるというものです。

 しかし、私たちは社会性というものの重要性を強調した教育を課せられすぎたあまり、自分のことに意識を向けることが、あたかも自分勝手な悪行であるかのように感じられるのです。それで自分のためを考えようとすると罪悪感が湧き起こって来て、できなくなってしまうのです。

 ですが奇妙なことに、他人のことを考慮したはずの振る舞いが、実は自分勝手な行為になってしまっていることがざらにあるのです。それは他人を考慮することがその人のためではなく、自分の存在を認めてもらおうとする動機から行っている行為であるからなのです。他人を思いやる健気な自分を、自分が認めたいと思っているからなのです。つまり他人を自分のために利用しているのです。ですから自分は他人を思いやっているつもりでも、当の他人からは不快に思われたりするということも起こるのです。

 自分からしてみれば、ときには自分を押し殺してまで他人を考慮しているというのに、それが厚意として受け取られないことに対しては心外に感じることでしょう。しかし気づいてください他人のための厚意が認められなかったことを心外に感じるのは、それは実は厚意ではなかったという証拠です。他人からの評価を求めているということです。それもこれも結局は他人から認められたいということであり、その原因は自分で自分のことを認めていないということなのです。

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