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人がもめる原理

 ある事案について決定をしなければならないときに意見が対立した場合、結局はその中で一番権威があると見做される者の意見が通ることになります。意見を聞き入れられなかった者は、自分が否定されたように感じてしまいます。自分のことが認められないと感じるでしょう。そのネガティブな感情が、疎外感、無力感、あるいは怒り、恨みとなり、やがてそれが人間関係の問題に発展することもよくあることです。それが取り返しのつかない深刻な事件になることも、決して珍しいことではありません。

 他人同士で意見が対立することは普通のことです。人の信条、価値観などは個人の過去の経験から形成されているものなので、違う考えを持っていたとしても何の不思議もありません。それは理屈でわかっていても、いざその場面に直面すると、思わず感情的になってしまうものです。

 複数の人が集まると、そこには関係というものが発生します。その関係は具体的に見えるものであるかどうかにかかわらず、暗黙のルールによって縛られることになります。もっとも顕著なのが、権威関係です。つまり簡単に言えば、誰が一番偉いかということになります。一般的な社会人であるならばこのことは十分理解していて、権威のある人に決定権を委譲し、その代わりに責任を担ってもらうということでバランスを取るものです。

 しかし対等の関係であると考えられる場合、譲歩するということはその人に権威があるということを暗に認めてしまうことになりかねません。そうすると自分が下の立場にされると考え、それを恐れてしまうのです。だから誰にも譲ることはできないと考え、対立するという選択をしてしまいがちなのです。意見が完全に対立している場合、そして互いに譲らない場合、何ひとつ決定できないことは言うまでもありません。しかしそうなると大抵の場合、誰かが自分以外を無視して行動を起こすことでしょう。もちろんそれは人間関係の対立を生みます。人を無視するとは、その人自身の存在を否定することになるからです。
 意見の対立だったものが、人同士の対立になる、これが問題を深刻化する要因です。お互いに意見の内容について吟味すればよいだけのことなのですが、どれだけ学識に富んだ人であったとしても、そのような理性的な振る舞いができる人はほとんどいないのが現実です。とにかく意見の違いが、いつの間にか互いの権威の取り合いにすり替わり、やがて人間同士の否定に発展するのです。

 理性的な意見の交換ができるためには、それが権威の取り合いにならないことが絶対条件となります。それはお互いの権威を認める必要があります。お互いの権威を認められるようになるためには、自分の権威を認めていないといけません。自分の権威が誰かによって規定されるものではなく、当然誰からも奪われるものではないという確信が必要なのです。自分で自分を認めることがすべての前提なのです。もし誰もそのことについて考えず、実践しようとしないならば、人々はただ自分の権威を求めて争うだけでしょう。それは古今東西、歴史が証明しています。

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