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偶然性という言葉に「思いがけず利他」を読んで出会い直す

久しぶりに本を手に取って、まともに「読む」ということをした。
最近気になっていた、「思いがけず利他(中島岳志 著)」という本を読む機会があった。

そこで、偶然性という言葉に改めて出会い直した。

今、新たに「あいだす」という場について考え直している。
あの場所は一体何が良くて悪かったのか。
次の場所には何を残すべきなのか話し合っている。


偶然性は必然性の否定である。
偶然性にあって存在は無に直面している。
(かなり抜粋しています)

『偶然性の問題』九鬼周造

今ここに在る自分事態、偶然在るもの。

存在する人は偶然の繰り返しでここにいる。
もっと言えば猿がヒトへと進化し、今の人間になったことも偶然の繰り返しであると。
つまり、今いる自分が存在しなかった可能性も多いにある。ということ。

私たちはなぜ、偶然や自然といったコントロールできないものに、どうしようもなく惹かれてしまうのか。
しかし、偶然には受け入れ難いものもある。家庭や親や能力は選べない。

その偶然をいかにして自己が偶然の産物であるかと認知し、自分の力だけで存在しているわけではないことを認めることができるか、で自分を開くことにつながる。
ということが書かれていてハッとさせられる。

この自分を開くこと。が
まさに自分がずっと興味を持っている、「自己を開放すること」を端的に説明してくれている。

さらには、その偶然というそのものに、自らがどう気がつくか、そして受け入れるか、という部分があいだすをやってきて、感触がある。


柳宗悦の民芸(民衆的工芸)について

もう一つピンときた部分がある。

美しいものを作ろうとすると、作品は賢しらな作為性にまみれ、美が逃げていきます。重要なのは、意思を超えたものが宿ること。
美は作るのではなく、やってくるのです。

柳宗悦

美しいものを作ろうとすると、それに美しいものは宿らない。という話。
美しさは設計して作られるものではないということ。

この理解できそうで、できない。
理解しようとするとより複雑化していくこと、
理解というものの先にありそうなことが、逍遥学派がこれから語ろうとしている美術、美術教育、育てていきたい場に在る、気がしてる。

逍遥学派のやっていることは、
成長では成熟なんじゃないか?と人に言われたことがる。
(とても納得感がある)

仮にそうだとすると、
成熟すること=複雑化していくこと
その自分を複雑化していくことに、美術、美術教育がキーになってくるんじゃないか。と今のところ漠然と考えている。

美術には一つの答えが存在しない。
いろんな解釈をすることができるし、その関わり方も正解がない。
理解したと思わせてくれてる瞬間がない、まさにその周辺は複雑化している。

美術は自分を複雑化させてくれる。
つまりは、成熟させてくれる「何か」なのかもしれない。

ちなみに私が学生の時に、柳宗理のエッセイを読まなければいけない課題があった。
私はその時あまり面白さを感じなかったが、今、思いがけず利他の中で柳宗悦の言葉を見たときにわくわく感を覚える。

初めて出会った時よりも、
遠回りし、出会い直した時の方が、衝撃があるのかもしれない。
この発見を大切にしていきたい。


🦆逍遥学派HP
https://shoyogakuha.com/


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