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顔を見せる



エイブラハム・リンカンの言葉。

「40歳を過ぎた人間は、自分の顔に責任をもたねばならない。」

(『世界の名文句引用事典』より)


元々、鏡を眺めるのがいやだった。

自分の顔を可愛いとは到底思えなかった。


その上、なりふり構わず子育てして

顔周りに白髪が増え、シミ、ホクロが増えた。

その他もろもろ。シワも吹き出物も、ある。

子どもが描いてくれる私の笑顔にはバッチリほうれい線がある。

写真の撮り方によっては干支が一回り上であると言っても通ってしまいそうだ。

SNSに自撮り(スマホの機能を使った自分撮影)を載せてる人たちは、

遠い世界の人だと思っていた。


最近、

堂々としていたい、と思うようになった。



それは、誰よりもまず自分に対してだ。

自分自身の顔を見つめられないのは何故か。


何かが、心にやましいことがあるのだ。


私に限定していえば、

自分が、

自分自身に対してやましいのだろう。


自分の姿をおざなりにしていることが。

子どもの世話とか忙しいとかめんどくさいとか

色々な共感をもたれやすい大義名分をつけて、

自分のリアルをみようとしないことが、

心の奥底ではわかっているのだ。


自分が自分を愛せなかったら、

ガッカリするのが、

手の施しようがないのが、

こわいから。


自分とかけ離れた理想を課して

自分に厳しすぎるのは、

自分を無視しているのとおんなじだ。

結局「厳しい」の基準は、

自分の中で採用した

他人からの視線なのだから。


自分の顔をめんどくさいと放置するのも、

かまえないと開き直るのも、

自分に楽をさせてると思いきや

一歩間違えば自分へのネグレクトだ。


自分への、不適切な取り扱いには背景がある。


(虐待という大仰な言葉が通告や保護を遅らせるため、「不適切な取り扱い」と言い換えるようにと大学の児童福祉学の教授は言った。)


背景に触らず、

不適切な取り扱いが急に変わることはない。


なんでも、

結果というのは一日や一夜では出ない。

小さな選択の積み重ねの果てなのだ。

結果が適切になるのか、不適切になるのかは、

タネをまいた時点からの小さな選択の積み重ねなのだ。


環境に選ばされてる、という考えを批判するつもりはない。

分別のない子どもの頃は

文字通りそうだろう。

(その視点がなければ児童福祉は成り立たない。)

選択するというのは、

地味でもなんでも自分が得た経験の量がないと、難しいものだ。


でも私は40歳だ。

もう自分の顔の現実を、

誰のせいにもするつもりはない。


美魔女になりたいとか、

アンチエイジングしたい、とかそういう話とはちょっと違う。


他者への自己表現としての

自分の顔を

自分への愛を持って

自分にも他人にも堂々と見せられる人間でいたい。

シミもシワも色ムラも、直視する。

善悪で判断しない、

積み重ねてきた私の生き方の結果を確認して、

これからはどうありたいか、決める。

絵を描くように、丁寧に自分の顔をデザインしていく。

そのために毎日自分を撮り始めた。


生き方が顔に出るのなら尚更、

どう生きて死ぬか、

自分で選べる人間でいようと思う。















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