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シンクロの雨が降ってきた

11月3日(金)は祝日だったので、東京を東から西へ大横断をしていろいろなお出かけや用事に費やすことができました。個人的にシンクロがたくさん起きて忘れられない1日となったので、書き残しておきたい。

第一陣は、所属しているプロテスタント教会の食事会。40人ほどの大きな集まりです。同じテーブルでご一緒したのは、私の両親世代のご夫婦。たびたびお見かけしていたものの、お話をしたのは初めてでした。なんとテレビ放映されていた超有名なパペット劇の「中の人」だった、ということから話が弾み、その方の息子さんが、私の高校時代のクラスメイトのお父さんと職場が同じだとか、息子さんが文学部卒で小説を書くのが好きだけれど経理をしているというので、私も美大卒で絵とか粘土作品を作りつつ会社では税務や経理の見習いなんですよ(※向いてない)〜なんだか進路が妙に似てますね〜なんて話で盛り上がりました。何となく繋がっている!初めてお話しする他人とは思えない親近感が湧いてきたのでした。そういう出会いって、貴重(稀少)だなぁ、感謝だなぁ、与えられているなぁ、と思います。神様ありがとうございます。

第二陣は、とある人にアドバイスをされたので靖国参拝をして来ました。キリスト教の行事に参加した直後に、まっすぐ神道の拠点に行くとは、なんと節操ないことこの上ないと思いましたが。
ことの発端は遡ること10年前。高校3年生の修学旅行で、私は、地元のガイドさんと他のクラスメイトと、戦跡の内部の見学をしました。そこで、詳細は省きますが、物理的法則を超えた世界(霊界)があるということを我が身をもって体験しました。そして、修学旅行から半年ほど、特定の匂いが鼻をかすめるという現象が頻繁に起きました。どこにいても、無臭の場所にいても、関係なく、フッとするのです。そしてここ最近再び、毎日のように鼻をかすめるようになっていて、どうしたことだろう、と思案していました。とある先生に相談したところ、「すぐに靖国神社で正式参拝をしてきなさい」と言われたのです。神社へ向かう道すがら、私は、「神様… 私は正直いま自分が何をしているのかもよく分からないのですが…、あなたが成されるように成してください。御心に従います…」といった祈りを心の内側に溜めていました。

正式参拝とは、社務所で申し込みをして、玉串料を納めて、本殿に連れて行ってもらって、鎮魂の儀式を神職から受けるというもの。トータルで30分ほどでした。神職さんが祝詞を上げ終わったころ、合掌する普段着姿の中年男性のイメージが脳裏に数秒あらわれました。目を閉じていてくださいと言われていたので、3次元世界の物体の見え方ではなく、頭の中で見えている画像といった感じでした。記憶の中の画像を思い出すのとも少し違うような。
神社を出て駅へ向かう途中、ふたり組の若者が反対側から歩いて来ました。だんだん近づいて来て会話が聞こえて来るにつれ、部屋の片付けとか処分の話をしているのが分かりました。そして私とすれ違った、まさにその瞬間。

「成仏したから。」(※捨てたものが)

と男の子が言ったのです。結構大きな声で。

なんと…。シンクロではないか。答え合わせのような符牒の一致。

私は、修学旅行での体験は、ある種のトラウマというか「怖かった体験」と認識していたことを恥じました。自分の主観だけではなくて、その戦跡の場所に魂がとどまっている方々のことに想いを馳せることができていたならば。「怖い」ではなく、「神様のもとへ帰り来世へ移行できますように」と思って差し上げることができたはずです。靖国神社は、政治的に取り上げられがちな場所ではありますが、それはあくまで世俗世界での話。戦争で亡くなられた方の魂を癒やし慰めることに特化した神社で、日々神職の方々や訪問客が祈っている場所です。今回初めて中に入ったのですが、都会のビル群のど真ん中にあるとは思えない非常に清浄な空間で、祈りが蓄積された場所であることを深々と感じました。そこで私も、神道式ではないのかもしれませんが… 「あの時、あの場所で出会った皆さんが、まっすぐ神様のもとへ帰られるように。神様の導きがありますように」とお祈りをさせて頂きました。

キリスト教徒が神社で祈祷を受けるのも、私にとっては矛盾のない、連続性のある出来事でした。「目的が果たされればいい」というか、「効けばいい」というか。ある宗教の熱心な信者の中には、他を排除する傾向があります。自分の信じる宗教の正当性を認めさせたい、異宗教を屈服させたいと思う人が沢山いるように見えますが、それは宗教自体の欠陥ではなく、それを扱う人間側の誤りに思えてなりません。
宗教が生まれる以前の原始世界でも、人々は神を信じていました。人間の知恵や能力を超える存在は、現代よりリアルだったでしょう。どうやったら、常に「神様にコネクト」できるだろうか… 世界各地のあらゆる時代の人々は、工夫し、試行錯誤したに違いありません。そういった取り組みが徐々に、万人が再現できるように儀式化・作法化されていき、いまの数々の宗教になったのではと思います。だったら、同じ中庭の大木を、別々の窓から見ているだけではないの?同じ山を、違う登山ルートで登っているだけで最後は頂上で「やあ」なんて出会うのではないの?なのになぜ、「自分のが唯一正しい」と言い張ってしまうのだろう。さらに、その傲慢さは人間のものなのに、「神様のせいで人間は分裂してる!神様が諸悪の元」と神様のせいにまでしちゃう訳ですよね… 

地境の広がった1日でした。STRANGEでHOLYな1日。



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