見出し画像

『運が良いとか悪いとか』(3)

(3)

そのように人間が人間を支配する形にエネル
ギーが割かれない分、人間の思考は何に向か
っていたのかと言うとシンボル的なものを扱
うことに費されていた。

ところで、いまわたしが思い浮かべる太古の
人間集団は比較的少人数の集団という以上に
は、それが幾つかの家族の集まりなのか、必
ずしも血縁で結ばれていない成員も多く含む
のか、そういったことさえも不明である。

まずは動物としての人間が、置かれた環境に
応じて自然に作る集団の型と規模はあるのだ
ろうと思う。わたしが思い浮かべる太古の集
団ではこの型がまだ打ち破られてはいない。(註1)

ともかくもここで言っておきたいのは、そこ
では彼らが日常的に集団を作りつつその環境
でやはり彼らなりに経験から導かれたルール
や常識を形成している(粗い網の目)一方、
それ以上に、世界は圧倒的なシンボル群に満
たされているということだ。

シンボルとは何かと言うと
(事実と向かい合わせになるもの)
と、この稿では言っておく。といってこれは
夢想とか事実の抽象ではない。

わたしたちが今の時代の常識レベルで
「事実を確定する」
ようにシンボルの中味を確定することは出来
ない。だがそれにも関わらず事実と無関係で
はあり得ない(あるのか無いのかと問われれ
ばある)ものがシンボルだ。

人間が地球上に居るということは、地球環境
の事実(物質的なもの、対象化出来るもの)
と身体を通して関わっているだけでなく、シ
ンボル(ハッキリ対象化出来ないのに、それ
でも我がことである外界)に関わっていると
いうことでもある。

たとえば日の出というのも圧倒的なシンボル
だ。地球が太陽の周囲で自転しているので、
地球上の大部分の場所からは太陽が上りまた
沈む現象がくり返すように見える……という
のが今の時代のわたちの事実だとすれば、古
代人にとっての日の出は事実以上にシンボル
であって、まず
(一日の始まり)
というような、すでに文化的な刷り込みによ
って無自覚にカレンダーの一日を思い浮かべ
てしまうわたしたちが抱くような事実の観念
はない。

太陽が昇れば身体が温まるとか、闇が払われ
るとかいう身体により直接訴える次元での事
実認識(もちろんそれらも同時にあるが)を
多分圧倒するようにシンボルが世界に満ちて
いる。

第一にそれは
(認識の対象)
というようなものではない。

わたしたちには主に学校を通しての刷り込み
があるので、すぐに
(人間という主体が、環境という対象を認識
する)
といった図式で考えてしまう。

ところが多分古代人はまず日の出を経験して
はいるが、身体で分かる事実認識と同時にシ
ンボルを形成している。しかしこの稿は、よ
り事実認識に近い現代の言葉で書かれている。
だから無理矢理を承知で事実認識の言葉で説
明するわけだが、するとたとえばこんな風に
なる。

日の出を見る古代人は
(今まさに境界を越えて変容する自分)
のようなものを体感している。太陽が夜と昼
の境界を作っているのではない。自分自身が
その境界にいる……あるいは太陽と共に境界
を作っている……のだ。またそのときの「自
分」というのは、この環境の中にポツンと存
在している自分ではなく、環境との区別が必
ずしもはっきりしない(はっきりしないから
と言って不都合のない)自分のことである。

つまりは、単に太陽という天体が地平線から
(あるいは海や山の向こうから)上ってくる
というのではなく、自分がこの現象と半ば一
体化している。

同様にして、古代人は日の出に
(満たされる自分)

(よみがえる自分)
を感じたり
(反復して倦むことのない自分)
を感じたのかも知れない。

これらが古代人が抱いていたシンボルに近い
ものだろうとわたしは考える。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(註1)
動物としての人間が、与えられた環境で自然
に作る集団の型が(幾つか?)あるとして、
その型を人間が自ら決定的に越えていくとし
たら可能性は

1)環境変化に伴って肉体の機能が変化する
  とき

2)身体生理に基づく家族形成(さらに集団
  形成)についてのシンボル(先行してい
  たもの)が、新しいシンボルによって凌
  駕されたとき

のどちらかだ。たとえば複数家族で集団を作
るのはもとのカップルの娘が子を生んだとき
だけという、母系の人間集団があったとして、
これが或るとき例外的に息子の家族が行動を
共にする期間がありその間は結果的に得るも
のが大きかった。ただしこういう経験が幾度
繰り返されても、それだけでは夫婦のもとに
は娘の家族だけが残るという集団形成につい
てのシンボルはビクともしない。例外は何度
でも起こりうるが、それらはいつまで経って
も例外なのである。

ところがもしそうした人間集団が、自分たち
とは決定的に異なる人間集団に支配されるよ
うになり、しかもその支配下で
「人間支配の論理」
とも言うべきものが血肉化されると、何かの
事情で支配者集団が去った後にも、後戻りす
ることはない。あるいは決定的な痕跡が残る。

その場合もともとあった母系的な人間集団の
シンボル、集団内の序列や権威はあったにし
ても、意図的一方的な人間支配は行われなか
ったその社会のシンボルはもうかつての力を
失っている。

そこには臨界があって、被支配状態の人間集
団が支配をあくまでも
(やむを得ず受け入れている、耐えている)
のか、それともすでに
(この状態が当然)
と感じるようになっているのかの境目があり、
それを越すか越さないかで昔に戻るか戻れな
いかが決まるのだろう。両者を分けるのは、
人間には支配するものとされるものとがある
……といったシンボル(天孫降臨のようなも
の)が、実際にいま支配下にあるその集団生
活の主要な場面、たとえば逆らえないものの
直接、間接の現れやそこから派生していく義
務的な事柄の受け止め方、またそういう存在
の下で営まれる人付き合いや息抜きや楽しみ
ごとに至るまでをすくい上げ、それぞれに場
所(意義)を与えることが出来ているか(シ
ンボルのカケラが広く行き渡って生活全般を
覆う常識の網の目が出来上がっているか)ど
うかだろう。

ところで人間による人間支配の起源はどこに
求めたらよいのだろう? 上の記述を見てい
ただければ、わたしにとっては
(何かの事情で或る人間集団が他の人間集団
に支配される)
という形から考えて行くのが、今のところ自
然なのだ。

だが、なぜその逆ではないのか? 人間は当
然のこととして他者を支配しようとするもの
だという考えから出発する人を、わたしは
「あなたは根本から間違っている」
と言えない。

水でも食物でも、限りある資源の奪い合いや
優先権をめぐっての争いなどから、人間集団
が他者(他集団)排除に大きなエネルギーを
割き、そこから勢力争いの駆け引きに及び、
ついには血縁を本質的に超えた政治集団を形
成する。ここには他者排除が他者支配に転じ
ていく必然が、確かにあると思われる。

にもかかわらずわたしが
(支配されてしまうこと)
から考えてしまうのは、いわゆる自虐史観の
反映だろうか? 対米戦争で大敗北した挙げ
句に総懺悔して
(自分たちが他国を支配しようとした過去を
出来れば無かったことにしてしまいたい戦後
教育の刷り込み……無意識)
が反映しているのだろうか?

わたしは、そういうことが百パーセントない
とは言えないまでも、より深層では日本人の
シンボル思考の傾向が反映したものだと思っ
ている。

だが、この調子で続けると(註)なのに、余
りにも長々しくなってしまうので、これを宿
題としたまま先に進みます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?