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音のない世界で。

こういうと変な人みたいだけれど、感覚がなくなることに興味があります。
多分はじまりは、自分の目が悪いこと。今でもコンタクトなしでは(-9.0までいってしまった)、日常生活はおくれない。

小さい頃から目が悪くて、よく「そんな暗いところで本読んでると、目見えなくなるよ」と言われていて、「はいはい」なんて答えながら、どこかで「本当に見えなくなったら、どうしよう。どうなるんだろう」って思っていた。
今でも、もしかしたらいつか見えなくなるかもなあなんて、漠然とだけれど思っている。

そこから、自分の5感覚がなくなったら、どうなるんだろう。もしくは今のものと違ったらどうなるんだろうって、ぼんやりと時々考える。
どれか1つ失ってしまうなら、どれが1番(まし)かな、とか。(今の所、選ばなきゃいけないなら嗅覚かなあなんて思っている。)大学のときにスピーチのクラスを取ったときは、共感覚をテーマにしてやったりもした。

与えられたのか手に入れたのかして持っている私(人間)の感覚を通して世界を見て、何かを認識し、人と出会いコミュニケーションを取っている。自分が見ている手にしている世界と、他の人が(他の生命体が)見ている世界は一体どう違うんだろうか。

前置きが長くなったけれど、そんな興味を持つ私は、「真っ暗闇の世界を体験できる」と聞いて、ダイアローグ・イン・ザ・ダークに5年か6年ほど前に参加した。(知らない人はこちらからどうぞ。)

参加した時はクリスマスバージョンで、真っ暗な世界で1時間ほどの短い時間を過ごした。

思った以上に真っ暗な中、この世界に慣れているアテンドに導かれて、少人数のグループで「公園」を歩いたり、クリスマスカードを書いたり、ベルで音楽を奏でたり、食べたり飲んだりした。
アテンドをはじめとする、そこで働く人たちの見えない中での確かな足取りや、ほかの参加者たちとの genuine なやり取りが、驚きであったり、安心だったり、嬉しかったり。なんとも言えない気持ちになったのを覚えている。「暗闇の世界も絶望的なほどに怖いものじゃない」とも思った気がする。いつかまた行きたいと思っていた。

そんなダイアローグ・イン・ザ・ダークが、今回新しく「ダイアローグ・イン・サイレンス」をやっている(今年で2回目の開催)のを船の上で知って、帰国に合わせて予約して行ってきた。そう、これが本題なのです。

常設ではなくて、新宿新南口からの直通している Womanの5階で開催。
静けさの中の対話「おしゃべりしよう」

(音がない世界って、どんな色なんだろう・・・黒のイメージなのかな。白のイメージなのかな。)

見えなくなることは想像することがあったけれど、聞こえないって、今まであんまり想像したことがなかったかも。

あ、でも手話は興味があったんだよなって思い出す。(すっかり忘れてたけど)

地域活動支援センターという場所で働いているときに、手話サークルを利用者さんと一緒に作ってやっていた。手話ソングといわれる曲の歌詞に合わせて、手話でパフォーマンスをするのも、何度かイベントに向けて練習して披露したなあ。そうそう、みんなが帰った後に、録画していたNHKの番組を3人で見たりして。

手を動かすのが多分すき。フラダンス、茶道と手にまつわる習い事をやっているのも関係あるのかな?手がうつくしく動くのを見るのが好き。手話の1つの言葉が、「なるほどね〜」って納得しながら覚えるのも面白かった。その物事や事象、気持ちを「これってこうだよね」って皆がある程度納得できる形で、手や体の動きに落として、それを共有している。

あとは地元のレストランで、8人位のグループが手話で、音はないのに賑やかにおしゃべりをしているのを見たことがあって、とても楽しそうで、その光景がとても印象に残っている。

おっと、脱線脱線。

私にとっては、「サイレンス」「音のない世界」というと、手話のイメージだったのです。周りにきこえない知り合いもいない。それよりも言語の違いで、なかなか意思疎通が出来ない!という方が身近なものとしてある。そんな中ダイアローグ・サイレントに参加してきたのです。

11人のはじめましての人たちで1グループ。アテンドは、ヒーローさんというめちゃくちゃチャーミングな大竹しのぶ似の女性。手と顔の表情のにぎやかさ。そして喋っても喋らなくても面白すぎる。

会場の中に入ると、「声を使って喋ることをお休みしましょう」とあってそれぞれがイヤホンをつける。丈夫なもので、自分の笑い声や振動のようなものが少し聞こえるけれど、それだけの世界。少しザーッとする?

会場はいくつかの部屋に分かれていて、それぞれ違うアクティビティーをする。インストラクションも、ヒーローさんの身振り手振りに頼るしかない。

見ることって疲れるんだなあって、まず思った。(こんなにじっと見てもいいのかな?どこを見たらいいんだろう。自分も見ているっていうことは相手も私を見ている!)よく見ること。ヒトの表情や体の動きが伝えている情報って、実はものすごく多い。

分かる分かろうとするって体力がいる。疲れる。言葉が分からないっていうのは、「分かろうとしない」いい言い訳にもなるな。本当に伝えようと思えば、体全部使ってたくさんのことが伝えられる。普段言葉(口から出る、ね)に頼りすぎていて
体の力・手の力・顔の力使っていないのかも。

ゲームのようなものもあり、ヒーローさんのアテンドが楽しい。途中疲れて、目がどっか言っちゃう時もあったけれど(それもバレバレ!)最後は思わず夢中になってチームで「おしゃべり」しながら、ゲームをしました。なんだか夏休みに近所の子たちとわぁわぁと遊んだような後のよう。

そして、みんなで感想を伝えたり質問をするシェアリングの時間。

中途失聴覚の人が2人一緒に参加していたことを知る。90分間一緒にいて、最後にゲームしてても全然分からなかった。「今日は気を使わなくてよくて、よかった」とその内の1人が話していた。対等であること?

音のない世界にいる人と、普段こうやってあまり会って話を聞くことが出来ないもんなあ。それって残念だなあ。今回いろいろ聞かせてもらって、やってみたことも伝えてみて。うれしかった。もっと話して聞いてみたいと思った。

エンディングも工夫されていて、やっぱりダイアローグの世界観は素敵だと思う。アート。最後までうれしくて、楽しみが続く。


さて、感想。なんだろうなあ。noteだし、ぽろぽろと書いてみる。

手話またやりたいなー、やろうかなー。単純や。動く手。ものすごく、楽しい。
音や言葉ではないコミュニケーション。分かろうとすること。口から出る言葉以外で、表現すること。「言葉」。

私は「喋る」ことへの苦手意識がかなりある。それは会話のテンポだったり、トーンだったり、周りといつもどこかずれてしまう気がしてしまう。あとは聞いてもらえてる感がないとしんどくなる。書いたりするほうが、ずっと楽。もっと喋る以外のコミュニーションが出来たらどんなに楽なんだろうって思ったりもする。(じゃあ喋れないことを選ぶ?)

自分の感覚が1つ足りなくなると、相手を頼る。頼れない私。もしくはお互いの関係性に頼るしかなくなる。豊かさ?そうなりたい、とは言っちゃいけないんだろうな。

この頼り頼られる関係性に興味があるから、私は「障害」という概念やそれを「持つ」人やその周りの人に興味を持っているのかもしれないとも思った。人に頼って生きていく。そのことに変な(憧れ)がある。「バランス」の崩れた関係というか。普通は皆ちょっとずつ我慢して、崩せないところが、むき出しになっている感じ。いつも隠れている/隠している「人間」が出てくる。ここの部分、まだよく分かっていない。センシティブな予感がしているトピックだから、ちょっと怖いんだけれど、もう少し言葉にできるようにしたい。

こっち(聴こえない)の世界のいいところ、あっち(聴こえる)の世界のいいところはどこだと思う?ってアテンドの人が途中で聴こえなくなった人に尋ねていた。そして彼女も似たような質問をまた受けていた。
2つの世界。違う世界なのか。世界をまたぎあうのか。重なり合う場所。

今日90分経験した、この感覚。ふと思い出したときに想像したい。今、私聞こえなかったら、どんな感じなんだろうって。


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