見出し画像

モノとコト

モノとコトという対比構文が語られはじめたのは20年くらいまえだろうか。もっと前からだったかな。

大まかには、モノからコトへ、モノではなくコトが大切という流れの話しだった。おそらくモノを偏重する姿勢を批判する文脈で語られたのだと思うが、自分もその頃そう感じてそう主張していた。プロダクトデザインからITC関連のデザインへ進展したこととも関係があるかな(ということは、30年はゆうにたっている)。

しかし最近は「モノとコト」という形ではあまり語られなくなった気がする。といっても、べつにコトが大切ということが、再否定されたわけではない。おそらくコトが大切という考え方が飽和して、語る必要がなくなったということなんだろう。つまり話題として鮮度を失った、ともいえるかもしれない。でも、本当にそうか?

ちがう視点から少しだけこれを蒸し返したい。
あらためて、こういうことではないかと考えた。

やはり大切なのはコトの方ではある。
それは、コトが意味内容であるから、ではないか。シニフィエといってもいい。それに対してモノは、それを指し示すシニフィアンとしてはたらいている。

人の行為や事象、あるいは言葉にならない思いなど、それらが価値や意味と結びついている。少なくともそれらが価値の対象である。価値や意味とは物理的な実体ではなく、心の世界の中にだけ存在するものある。だからそういった価値や意味は、「記憶」がなくなればそのままでは消えていってしまう。
しかし消えないように繋ぎ止めるはたらきをモノがもっている。これはまさに、言葉と意味の関係、指すモノと指されるコトの関係である。

たとえば、何かを「為す」こと自体に意味がある。「生きること」とか。しかし「為したコト」は、正確には記憶の中にしか残らない。しかし、為されたことの証しとして、物理的な破壊、転移、生成が起きる(こともある)。そういった物理的な事象の後には物理的なモノが残る。あるいは、モニュメント、景色、山や川や海、桜や富士山など。「景色」というモノは、旅という行為の結果、文字通りたどり着いた物理的な一つの実体である。

しかし景色であれ工業製品などの人工物であれ、さらに芸術作品であれ、本来それ自体に意味や価値はない。それはただの石ころや岩、布のキャンバスの上の絵の具という物質でしかない。しかし一方それは「行為の結果」残された遺物あるいは形見である。それが科学、技術、豊かな生活の、あるいは偉業を指し示している。
亡くした母の写真や形見など、それ自体に意味や価値があるのではなく、それらが母を思い出させてくれるトリガーとして働く、そのことには価値がある。それは母をシニフィアンしている。

モノとコト、どちらが大切かと突き詰めてもしかたないのだろう。
モノとコトの言語学的な転回を試みたわけだが、この直感はあるいはただの妄想のような気がしないでもない。

これは前に呼んだ松尾芭蕉が「古池や」で達観して完成させた俳句という芸術(長谷川櫂)に通じている。このこともいずれ書きたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?