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「せずにおれない」は、美しい。

あなたは、M-1グランプリを観たか。

私は、「お笑いファン」ではない。ライブに足を運ぶわけでもないし、芸人さんたちの動向を逐一チェックしているわけでもない。でも、M-1だけは別である。「スポーツには詳しくないけどオリンピックだけは観る」のとたぶん似ている。昼間の敗者復活戦から、M-1の日は1日空けて、家で、テレビの前に陣取る。ごはんとか、好きなお酒とかは全部準備しておく。そしてどっぷり、観る。観る。観る。

いやほんと面白かった。M-1常連組が、ごっそりと脱落した決勝戦。名前も顔も知らない、若手漫才師の皆さんが舞台に出てきて、ほんの一瞬の探りあいの後、数十秒で観客を何らかの形で味方につける。みんなが、そのコンビを好きになる。そうなったらもう、なんというか、一緒に遊ぶ。観客も交えて、大いに遊ぶ。その多幸感が何個も何個も連なって、今年のM-1は、それはそれは楽しかった。

……違う違う。こんなことが書きたいんじゃない。M-1の舞台で何が起きたかは、どこかの誰かが詳しく書いているだろうから、知りたい人はそっちを読んでください。

私が書きたいのはそうじゃなくて、すべてが決したあと、「GYAO」で放送された「M-1大反省会」でのことなのである。

「笑い飯」のふたり。「パンクブーブー」の哲夫。「麒麟」の川島。「ナイツ」の土屋。ちょっと前のM-1でブレイクした、中堅世代の皆さんが、決勝で披露されたすべてのネタを振り返り、分析し、それを語り合うという特別番組が、GYAOで生放送されたんである。

そしたらもう、それがとんでもなかった。「この局面で出てきた、このコンビが繰り出した、このタイミングでのこのギャグが、こういうふうに効いていた」的な解説が連打されるのだ。

この光景には、既視感があった。ほぼ10年前、映画の専門学校で事務職のアルバイトをしていたことがある。そこで出会ったのは、観た映画について、微に入り細に入り、分析をふくらませる映画好きの皆さんだった。あのホラー映画のあのシーンがあんなに怖いのは、オープニングのあの仕掛けがこういうふうに効いているからである、的な話で何時間でも話せちゃうし飲めちゃう人たちだった。

なんというか、この人たちとは、映画の観かたが、はなっからまったく違うのだった。私なんかは、ただ、観ている。「このシーンで誰がどこに立ってたか」とか「クライマックスの前に仕掛けられた伏線」なんて、はっきり言って覚えていない。ただ展開に心を揺らし、ハラハラし、エンディングに胸をなでおろす。そんなもんである。

でも彼らは違った。「面白いな」と思うと、「どうして面白いのかな」を考えずにおれない。「考えなきゃいけないから考える」のではない。彼らは、考えずにおれないのだ。今の映画がどうして怖かったのか、今の漫才がどうして面白かったのか。何がどう効果して笑いが爆発したのか、考えずにおれないから考える。つい考えてしまうんである。

だって彼らは、当事者だから。映画を、漫才を、つくることの。

あんなふうに夢中になれることが、私にはまるでなかったとは言わない。演劇にハマっていたことがあるし、インタビューに夢中だったこともあった。それらのものを、すっかり嫌いになったわけでは決してない。けれど「語らずにおれない」ほどの熱を、果たして今も保っているかと聞かれたら、うーーん、それはちょっとなんというか、温度が違ってきたなあーーと思うのである。

「語らずにおれないから語る」のには、ある程度の「身の程」が必要なのだということを知った、といったところか。

たとえば、その道を志したばかりの若者たち。これからその道を邁進しようとしている者たち。大人の目なんか気にせず、大いに語り倒せばいい。たとえば、その道を志して長い年月が経つ者たち。その道を邁進し続けている者たち。培ってきた持論や知識を磨き上げて、存分に語り倒せばいい。

私は、その、どちらでもない。それだけの話である。

漫才を「語らずにおれない」人たちが、スマホの画面の中で、夜を徹する勢いで語っている。その光景は、まぶしくて愛しい。そのまぶしさを知れたのは、たぶん、私が「○○せずにおれない」から脱したからだ。どの道からも求められていない自分を、やっとのことで、受け入れたからだ。最近、いろんなものが、まぶしくてならない。世界は、こんなにも美しい。(2019/12/23)

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