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「イラ立ち」の知覚過敏

研修の日々である。

小さいころから、人の声にひそむニュアンスに知覚過敏だ。喜びや、悲しみや、孤独や、イラ立ちが、その人の声にまみれて聞こえるのだ。ひとりっ子の私にとって、まわりの大人たちを味方につけておけるか否かは死活問題だったので、各種の匂いをいち早く嗅ぎ取っては、先回りしておどけてみせる。それが当時からの、私のファースト・ミッションだった。

大人になってもその習性は変わらない。相手が自分にイラッと来てることが瞬時にわかる。この知覚過敏が大いに発揮されてしまうのが、新しい仕事に就いたときの研修の場である。

彼ら彼女らに悪気はない。でも彼ら彼女らが日頃から軽々とやってのけられることを、なかなかやってのけられない人間がひとりいた場合、やはりそこにはイラ立ちが芽生える。尖った声で「え、それ、前に教えましたよね??」って言われる。すごく言われる。一度や二度じゃ無理だよ、と思う。「教わる」と「理解する」は別だよ、とも思う。でも、そうは言えない。ちぢこまるばかりだ。

前の職場での研修期間もそうだった。指南役の年下先輩の、ご機嫌を逐一嗅ぎ取っては消耗していた。いや別に、好かれようが嫌われようがどっちでもいいのだ。仲良くなれようがなれまいが、どっちでもいい。ただ、相手が自分にイラ立っている、その状況が悲しいし、その状況に焦るのである。

これは私の性質である。だからこれからも仕事場を変えるたびに、私はこんなふうなんだろうなあと思う。年下先輩たちの声色に一喜一憂し、ちぢこまり、脇の下にじっとりと汗をかきながら、ごめんなさいごめんなさい、ってびくつきながら生きていくんだろう。

若い頃に取り組んだものが、今に至るまでつながって、実って、それを「実績」にして生きてる皆さんがうらやましくなる。「手に職」のない私は、これから出会う誰かやどこかに望みを抱けるはずはなく、自力で仕事を生み出していくことには挫折して、こうやって「派遣法」にのっとって3年ごとに、新しい職場へ追われては、仕事も人間関係もゼロスタートで、脇の下に汗をかく日々を繰り返すんだろう。脇の下の汗が乾かないまま、おばあちゃんになってゆくんだろう(おばあちゃんになるまで派遣仕事にありつける保証もまるでないわけだが)。

こんな50歳になるなんて、想像もしてなかったな。何かを続けていれば、ひとりでにそれが積み上がっていくもんだと思ってた。まさか積み上げようと思ってたものから、拒まれ、追われて、生きてくことになるなんて。

……まあね、でもあれだわよ、人が取る態度としてさ、「同僚」とか「後輩」に対する態度なんてものは、しょせん、あんなもんだろうなとも思うわけよ。あそこは仕事場なのだから、任務を遂行する以外のベクトルはまるで不要。人間的つながりなんて、望むべくもない。望まなくていい。そのことが、ちょっと身軽で気軽な気持ちもするのである。

明日も、私はあの場所へ行く。ひとり、あの席へ座り、年下先輩陣をイラ立たせながら、平気な顔してドジを踏む。あわわとあわてて、謝って、どきどきを抑えながら次へ行く。大丈夫、この世のだいたいの事柄は、慣れるか、終わるかのどちらかだ。そのどちらが訪れるにしろ、それが私のおさまるべき方向なのだろう。どうなるのか、見てやろうじゃないの。かかってこいやぁ。妙な強がりとともに、今日も1日が終わろうとしている。(2023/09/20)

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