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「私」が剥がれ落ちる夜。

派遣の同期の何人かで、飲みに行ったときのことだ。

それはわりと出席率の高い集まりで、すでに辞めていった面々にも声をかけていたので、飲み屋の一角を貸切状態で、わいのわいのと騒いでいたのだ。

そういう集まりは往々にして、「せっかく来てたのにほとんどしゃべってない相手」が多発する。なんだよー、しゃべれなかったじゃんよー。帰り際、エレベーターの前とかで、何人かと肩を突っつきあっていたときのことだ。

そのうちのひとりが、とても早口で言ったのだ。新しい職場がどれだけ大変か。でも自分には経験があるので、日が浅いのにめっちゃ任されてること。みんなと一緒だった職場を辞めてよかったと思ってること。それはそれは早口で、ひと息に彼女は言いきった。

ああ、この人は今日、これを言いに来たのだ。

エレベーター前での立ち話だ。新しい職場の話なんて、誰も水を向けていない。でも、彼女は今日、どうしても、私たちにこれが言いたかった。それがわかったとき、胸が、きゅーーんとなった。だって、私にも、身に覚えがあるから。

たとえば、家族に。あるいは、旧友に。
「いかに自分が頑張ってるか」のみを伝えねばならないと思っていた季節が。
「しーちゃん、すごいねー」と言われ続けねばならないと、思い込んでいた季節が。

私の中のおばちゃん人格が目を細める。そこを超えるとラクだわよー、って言っている。今は、自分が頑張っていようがいまいが、私は私だし、その「私」を受け取ってくれる仲間としか、最近はもう、ほぼ飲まない。

気が重い顔ぶれの忘年会の予定とか、皆無だ。

エレベーター前。わいのわいのと写真を撮って、みんなは二次会に流れていく。私は辞退して、雨の中を歩き出す。方向を間違えて若干迷子になったけど、それも込みで、私なんだからしょうがない。

「みんなにどう思われるか」を気にしてた自分が、少しずつ剥がれていく。

剥がれ落ちた先に待っているのは「孤独」ではない。待っているのは、むしろ、その逆だ。こっちが頑張ってても、頑張ってなくても、どっちみち笑っててくれるつながり。何をどんなにしくじろうが、そのしくじりを、面白がってくれるつながり。そうでないものたちが手の中からこぼれ落ち、そういうつながりだけが手の中に残っていく。なんて、あったかいんだ。それはもう断然うれしいじゃないかと、今、おばちゃんの私は思っている。(2019/12/17)

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