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『北の国から』雪子おばさんに学ぶ「旅人」の人生

最近、『北の国から』全24話を、イッキ見した。

CSで、2日間に分けて、デジタルリマスター版が一挙放送されたのだ。私は、よく語られたりものまねされたりする元ネタの断片的な知識はあったけれど、大人になってからは、ほとんど観たことがなかった。

放送が始まるのは13時。それまでにおやつや食事の準備を済ませ、万全の体制で、そこから23時過ぎまで、ノンストップである。

大人になってから観る『北の国から』はちょっと、とんでもなかった。ちいさな子どもの、まるで説明のつかない衝動や行動、気持ちのねじれが、説明のつかないままに、それでいて入念に磨きあげられた形でストンとカメラの前に置かれていた。大人のそれらも、同様だ。大人になったからといって、理路整然と生きていけるようになるわけではまったくない。一家の大黒柱であるはずの五郎さんだって、情けなく恋をして、情けなく取り乱す。

そんな中で、やけに胸に残ったくだりがある。最終回、雪子おばさんが、草太兄ちゃんに宛てた手紙である。

一応説明しておくと、雪子おばさん(竹下景子)というのは、五郎さん(田中邦衛)の元妻である令子さん(いしだあゆみ)の、腹違いの妹である。東京で家族と暮らしていた五郎さんは、不倫しちゃった令子さんを許すことができず、子どもたちを連れて富良野の「麓郷(ろくごう)」という土地で暮らし始めるわけだけど、ある日突然、雪子おばさんは東京から麓郷を訪れ、そして五郎さんたちと一緒に暮らし始めちゃうのである。

「暮らす」わけだから、もちろん働く。草太兄ちゃん(岩城滉一)の牧場で、家畜の世話をして汗を流す。家に帰れば黒板家の家事一切を担い、彼女は彼女の生活を獲得していく。……だけど。

どんなに汗を流しても、なにをどうひっくり返しても、彼女はどうも「よそ者」の匂いを消し去ることができない。

草太兄ちゃんは、そんな彼女の知性や都会っぽさに惚れる。その草太兄ちゃんのお父さん(大滝秀治)は、雪子おばさんを呼び寄せて釘を刺す。あんたは一生ここで暮らす覚悟があるのか。それがないなら出ていってはくれんか。

雪子おばさんは、東京で不倫愛をこじらせていたから、なるべく東京から遠くにいたい。せっせ、せっせと、麓郷の暮らしに自分をアジャストさせようとする。けれど、なんだろう、目に見えて、彼女はどうしても「麓郷の人」にはなりきれないのだ。

そして、最終回。ボクシングの試合に負け、姿を表さなくなった草太兄ちゃんに宛てて、彼女は手紙を書くのである。

自分は、どうあがいても、麓郷ではどうしようもなく「旅人」であったと。

うーーーーん!と私は唸ってしまった。どんなに溶け込もうと努めても、どんなに長い時間をかけても、その場所の「一員」にはどうっっっしてもなれない。そんな現象。ある。あるんだ。あるんだよね。

ある場所で、ある人たちを大好きになる。自分が放っている「よそ者」の匂いを自認しながら、なんとか、なんっっっとかそこの「一員」になれないものかと、あさっての方向にエネルギーを空回りさせる。それが私の、30代と40代前半の風景だ。

結局、どの場所でも「一員」にはなれなかった。どんな居場所もつながりも、ある程度の時間と交流を経たら、なんらかの別れが訪れる。——いや、違うな。「居場所」を避けて通ってきたのは私のほうだ。「終わらない関係性」とか「切っても切れない関係性」が、私にはとてつもなく恐ろしく思える。なぜなら「責任」を伴うからだ。

いつ自分がいなくなっても、どこにも支障がない。そんな道しか、私は怖くて歩けない。

雪子おばさんは、どうしようもなく「旅人」だった自分を振り返って、手紙にこう書く。「今度富良野に来るときは、『住人』になりたい。『住人』として、しっかり根を下ろしたい」

「根を下ろす」って、「責任」だ。その場所で自分の身に起こることを、自分の責任で引き受けるということだ。

のちに雪子おばさんは、結局東京へ戻り、かつての不倫相手と再婚をする。そして子をもうけ、しかし夫となったその男は、また別の女と不倫関係に陥り、雪子おばさんは再び独り身になる。

——なんて残酷なドラマなんだろう。そして、なんて真理を突いているんだろう。

『北の国から』は、北海道ののどかな風景を堪能するための観光ドラマではない。可愛らしい子どもたちによる心温まるホームドラマでもない。人間の闇を辛辣にえぐった、身につまされる、針の筵(むしろ)ドラマだ。

週末からは83年以降の、スペシャル版が放送される。観ようかな。怖いな。どうしようかな。うろうろとザッピングしながら、でもやっぱり、観ちゃうんだろうなと思うのだ。(2020/07/14)

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