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美味い唐揚げで救われる方法について

その居酒屋は、お客の数は、そう多くはないのだ。

お客がこぞって押し寄せるような店ではないけれど、味を見込んでくれる人はそこそこいた。「この唐揚げおいしいねえ!」って、言ってくれる同業者もいた。その味わいの秘密は、門外不出の下ごしらえだった。秘密のスパイスや調味料を揉み込んで、秘密の油温でカラリと揚げる。するとびっくりするくらい、素早く、たしかに、美味い唐揚げが揚がった。

やがてあるとき、同業者から、こんな提案が持ちかけられる。

「下ごしらえだけ、してもらえない?」

鶏肉に、秘密のスパイスや調味料を揉み込んで、ある程度まで寝かせたものを、店まで納品してくれないかというのだ。お客に出す寸前に、そのまま揚げれば、揚げたてが出せる。君んとこの唐揚げの下味は最高だよ、ぜひ下ごしらえをお願いしたい!って言われてしまうと、重ねてきた試行錯誤が思い返されて、それはそれでうれしかった。そう、うれしかったのだ。

あるとき。そのお得意様のひとりが、こっぴどいしでかしをやらかした。居酒屋業界のみならず、一般のお客さんや、店を訪れたことのない人たちからも、あまたの苦情がSNSに押し寄せた。下ごしらえ屋としても、さすがに理解しがたいしでかしだった。

それから数ヶ月が経った頃、姿を消していたしでかし屋さんから突然連絡がきた。ある上客から救いの手が伸びて、今はまたお客を迎えているので、週明けまでに、いつものように、下ごしらえを終えておいてくれないかと。

その頃、下ごしらえ屋は、直接お店に来てくれるお客が減った以上、何なら下ごしらえさえ、自分にはおこがましいんじゃないかと思うようになっていた。宣伝も売り込みも、自分には許されないんだと覚悟していた。生計を立てるために、派遣事務で食いつなぐ日々。けれど、しでかし屋さんにはこうやって、ほんの数ヶ月で上客から、

「救いの手」が伸びるのだ……!

はりつめていた糸が、全部切れた。どんな無茶な注文も、へらへら笑って請け負ってきた自分が干されて、理解しがたいしでかしをしでかした人には、すんなりと救いの手が伸びる。

そうかそうか。この世界は、そういう世界か。

……じゃあ、どうぞ、お幸せに。

望んだ世界の現実を、下ごしらえ屋は見てしまった。ある一定の人たちにとっては、幸福って、途方に暮れてれば向こうからもたらされるものらしい。でも、下ごしらえ屋には、もたらされない。だって、下ごしらえ屋だから。あの唐揚げや、その唐揚げに、下ごしらえ屋が絡んでいたことは、誰も知らないし、知る由も必要もないのだ。

さあ、そうこうしてる間に今週も、何の個性も問われない、派遣事務の1週間が始まる。何の個性も問われない人生は、安らかで、薄べったい。(2021/06/27)

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