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なんか、こわかった。

小さいころ、「ヘレン・ケラー」が猛烈に怖かった。

なんだろう、字面が怖いのだ。国語辞典を引いていて、「へ」の項なんかを開くと、かすかに、どきどきしてくる。注意深く「ヘレン・ケラー」のページを避けながら、そーっと、そーーーっとページをめくる。でも、ふとした拍子にそのワードに行き当たっちゃおうもんなら、一瞬で心臓が凍る。あわてて目をつむる。でも、「ヘレン・ケラー」の残像がまぶたに残っている。ああ、今夜は眠れない。そう悟るのだ。

生まれてはじめて買い与えられた伝記本が、誰あろう、「ヘレン・ケラー」だったのである。

次に買い与えられた伝記本は「徳川家康」だった。その次は「宮沢賢治」。脈絡がないにも程があるセレクトだが、選んだのが親だったのか自分だったのかもよく覚えていない。不思議なことに、どっちも、読んでる途中は平気なのだ。でも読み終わった途端、てきめんに「徳川家康」「宮沢賢治」が怖くなった。

伝記本3冊が収められている本棚に、毎晩、背を向けて、ちぢこまって眠った。白地に赤のゴシック体。それがまた、怖さを増した。見ないように見ないように、注意深く暮らした。でもたまに目に入ってしまうと、どきん!とした。そして、それはとても恥ずかしいことだとなぜか思っていた。決して、人には知られてはならない。

読んでる途中は、平気。でも、読み終わると、怖い。どうも「読み終わり」に鍵があるようだ。

そう。伝記本は必ず、主人公の「死」で終わるのである。

それは、私が生まれてはじめて触れた「死」だった。それまであらゆる偉業を重ねてきたはずの主人公。その、彼や彼女が繰り広げてきた物語。それらが唐突に、あっけなく、ストン、とぶった切られて終わる。どこを探しても、主人公は、もういない。どこか暗いところで、動かなくなっている。

「死ぬ」ってなんだ。「亡くなる」ってなんだ。明日の朝、起きたら、おとーさんとおかーさんが死んじゃってたら、どーしたらいいんだ。

おとなになったら、へいきになるのかな。そんなふうに思っていた。「ヘレン・ケラー」も「徳川家康」も「宮沢賢治」も、視界に入っても平気な人間に、大きくなったら、なれるんだろうと思った。

何十年も経って、たしかにそれらがへいきにはなったけれど、「おとーさんとおかーさんが死んじゃっててもへいき」ではまったくない。「おとーさんとおかーさんが死んじゃったら、どーしたらいいんだ」って、46歳になっても思っている(へいきな大人なんているのかな)。

関係ないけど、私は小さい頃、「シオノギ ミュージックフェア」も怖かった。両親の証言によると、番組が始まった瞬間、私は両手で両耳を押さえて、わーー!っと隣の部屋に逃げ込んでいったのだという。

まず、当時のシオノギ製薬の、CMが恐ろしかった。YouTubeで検索してみてほしいのだけれど、徹頭徹尾、商品のみが映し出された静止画なのだ。そしてただ、商品名と効き目を連呼する、四角ばったナレーション。なんの愛想もない。ほほえむアイドルも効果音もない。怖い。怖すぎる。なのに、目がそらせない。うええん。今夜、夢を見るようーー。

あと、仲代達矢の、整髪料か何かのCMがあったような気がするのだけれど、どなたか覚えておられませんか。あの仲代達矢が、髪をかきむしって、「ぬっ!」と目をむくコマーシャル。それが流れると、幼い私はびえーーーんと泣いたそうだ。すっかりトラウマである。

今の子たちは、なにが怖いのかな。テレビをつければ、どこかしらで、誰かしらがふざけておどけている時代に、今の子たちは何を恐れるんだろう。

それぞれに、あるんだろうな。そう思う。理由はうまく説明できないけれど、ただ、なんか、怖いものが。なんにもないのに、火がついたように泣き出すちびっ子には、きっと何かが見えているのだ。「えっ何が?」「えっ誰が??」じゃなくて、まずはその感受性に、乾杯したいと思うのだ。(2020/01/08)

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