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【短編小説】 屍臭 / 小倉日向


          1
(獲物だ──!)
 胸が躍る。全身の血潮が滾るようだ。
 岩田一喜の前に横たわっているのは、若い女だ。髪を金色に染め、濃いメイクで顔立ちを派手に整えた、ギャルと呼ばれる手合いである。着ているのは、だぼっとしたトップスに、太腿のあらわなミニスカート。
 フローリングの床に敷いたビニールシートの上で、女は目をつぶっている。死んでいるのではない。胸がかすかに上下しているし、閉じた瞼の下で眼球が動くのも見て取れる。あるいは夢でも見ているのだろうか。
 しかし、目が覚めても夢は終わらない。彼女に待ち受けているのは悪夢だ。
 年は十九歳だと、女は一喜に告げた。見た目に相応しい、年上を年上とも思わない、見下した言葉遣いで。
 小生意気な態度に腹が立たなかったのは、最初から「処分」するつもりでいたからだ。どうせ先が長くないのだし、不躾な振る舞いが許されるのは今だけと、胸の内で嘲っていたのである。
「さてと」
 一喜はつぶやき、やけにヒラヒラして頼りないスカートをめくり上げた。
 現れたのは、灰色の下着だ。特に装飾のない、地味なものである。外側は飾り立てても、見えないところはどうでもいいと思っているらしい。
 それでも、若い娘のインナーを見れば、劣情が高まる。一喜の鼻息は自然と荒くなった。女の股間からたち昇る、蒸れたナマぐささを嗅いだためもあった。
 成人前でも、すでに肉体はいっぱしの女である。おそらく何人もの男を咥え込んでいるのだろう。
 そして、自分が最後の男になるのだ。
 女の名前を、一喜はよく憶えていない。最初にミカだかユカだか、本名かも定かではないような名前を教えられたが、正直、何だっていい。どうせ愉しんだ後で命を奪い、捨てるだけなのだから。
 これが何人目の獲物になるのかも、一喜は正確に憶えていなかった。おそらく七人か八人。まだ十人にはなっていないはずだ。
 シリアルキラー──。彼の行状を知れば、おそらくひとびとはそう呼ぶであろう。
 名前の知られたシリアルキラーの生い立ちを調べると、家庭環境が複雑であるとか、幼い頃に虐待されたとか、過去が現在に影響を与えている事例が多く見られる。しかし、一喜の家は、他と比べて変わったところなど見られない。父親は公務員で、母親はパート勤め。きょうだいは弟がひとり。虐待も皆無だ。
 よって、鬼畜な所業を厭わない性格は、生い立ちによって育まれたのではない。ここに至るきっかけがなかったわけではないが、一喜にとってはレイプも殺人、今や趣味のようなものであった。
 趣味は長く愉しみたいから、捕まっては元も子もない。そのため、一喜は慎重に行動した。
 殺すのは最低でも一ヶ月、できれば二ヶ月はあいだを置くことにしていた。頻繁に死体が出たら、大騒ぎになるからだ。
 普通の地域なら、仮に二ヶ月置きでも充分に多いであろう。けれど、一喜が住んでいるのは、都内でも有数の繁華街K──町だ。暴力団と風俗関係者が多くたむろし、事件も頻繁に起こる街。
 さすがに殺人が日常茶飯事とまではいかない。それでも、死体を事件とは無関係のように処理すれば、怪しまれずに済んだ。自殺や事故も多い地域だったからだ。
 一番簡単なのはビルから投げ落として、自殺だと思わせることである。その付近は飛び降りが多く、名所になっているビルもあった。
 投身自殺ばかりでは芸がないと、首吊りを偽装したこともあった。ビルの外階段に吊り下げたのであるが、意外に面倒だったので一度しかやらなかった。
 手首を切って放置しておいたのは、さすがに事件として扱われるかとひやひやした。ところが、それも自殺として処理されたようだ。
 警察も面倒がって、明らかに殺人と思しき死体が出ない限り、事件として扱わないらしい。司法解剖も回避できて、一喜には好都合だった。
 冬なら外に放置して、凍死に見せかけることもできた。他に、ドラッグを手に入れて、オーバードーズを装うのも考えた。これは薬の入手元から足がつく可能性があり、未だに試みてはいない。
 気をつけねばならないのは、防犯カメラである。繁華街ゆえ、至る所にある。怪しい行動を捉えられたら、さすがに捜査の手がのびるであろう。そのため、事前に下調べをして、死角を狙うようにした。
 もっとも、カメラの数が多いということは、映像データも長時間かつ多数に及ぶのである。そのすべてをチェックするのは不可能に近い。データも三十日で消去されるはずだから、あとで捜査されても、そのときにはすでに証拠たる映像は消えている。
 そもそも、先に述べたように、犯罪を疑われなければいいのだ。
 ずっとうまくいっているものだから、一喜は次第に大胆になった。むしろそれが功を奏しているのかもしれない。
 人間、とかく慎重にと気を張れば張るほど、ミスを犯すものだ。怖じ気づくことなく行動することで、失態を回避できる。堂々としていれば、怪しまれることもない。
 もうひとつ重要なポイントがあるとすれば、獲物を厳選していることだ。
 一喜のそもそもの目的はレイプである。殺人は、レイプを隠すための手段に他ならない。先にシリアルキラーと述べたが、正確にはシリアルレイピストと呼ぶべきだろう。
 繁華街であるK──町には、多くの若者が訪れる。遠くからやって来る、家出同然の少女たちもいる。
 彼女たちは泊まるところはもちろん、お金もない。最初からそれらを現地調達するつもりでいるか、そこまでは考えず、行き当たりばったりで行動する思慮の浅い者も少なくない。
 そのため、誘えば数人にひとりぐらいの割合でついてくる。
 年齢は十代の後半が多い。愛情に飢えていると見え、優しい言葉をかけ、店で何か食べさせてあげると、それだけで犬みたいに尻尾を振った。
 そうやって引っ掛けた少女たちを、すべて獲物にしているわけではない。自殺なり事故なりに見せかけるのが難しそうだとわかれば、ご馳走してすぐに解放する。自宅へは招かない。そこは「現場」でもあり、場所を知られては困るからだ。
 ただで食事をさせるのは、決して無駄な投資ではない。ご飯を食べさせてくれる優しいひとがいると評判が伝われば、誘いにのる獲物候補が増える。実際、回数を重ねるごとに、成功の確率が上がっていた。
 誘う段階でターゲットに相応しいタイプを選りすぐっているが、最終的に獲物にしようと決定する要素は、殺してもバレにくいという一点に尽きる。家出の期間が長く、親も探している様子のない少女だ。無事でいることを身内の人間が端っから諦めていれば、死体が見つかっても解剖や捜査を望まないであろうから。
 最も都合がいいのは、手首や腕に自傷の跡があり、それを嬉々として見せつけてくるようなメンヘラ娘だ。誘ってついてくる子には、このタイプがけっこういる。
 今、目の前に横たわっている女も、前腕の内側に何本もの赤い傷があった。割合に新しいものもあり、ますます好都合だ。自傷行為の前科があれば、他殺だと疑われることはない。
 彼女たちは死を崇高なものと思い込み、亡骸となった自身の姿を夢想してうっとりする。いつ死んでもかまわないと人生を投げ出しているようでありながら、いざそのときに直面すると、泣いて命乞いをするのだから滑稽だ。
 もちろん、一喜は憐憫など覚えない。自己矛盾をあらわにした姿が小気味よく、これが本望だろうと命を奪ってあげるのだ。
 とは言え、レイプでも殺害でも、余計な痕跡を残さないよう注意せねばならない。いくら手首に自殺を試みたしるしがあっても、他に暴行の痕跡があったら、さすがに犯罪と見なされてしまう。
 しかしながら、あらかじめ抵抗ができないようにしてあったから、その点はほとんど心配がなかった。
 一喜は麻酔医だ。抵抗できなくなる薬物──筋弛緩剤に関する知見があった。大学時代の研究のテーマも、筋弛緩剤の効能と作用だったのだ。
 そのときからこんな日々を夢描いていたわけではない。あくまでも医療行為に関しての論をまとめたのであるが、結果的にそれが役に立った。うまく使えば、体内に痕跡が残らないことも知っていた。
 病院勤めだから、一喜はそれら薬品を手に入れることもできる。もちろん、勝手に持ち出すのは御法度だ。法的には毒薬と見なされるため、管理が厳しいのである。
 そのため、廃棄されるぶんを別の物とすり替えるか、患者に使用する量を減らして余分を手に入れるなどして、書面上は問題がないようにした。職場での一喜は、クソがつくぐらいに真面目な男で通っているから、怪しまれたことは一度としてない。
 筋弛緩剤で抵抗を奪えても、せっかくレイプするのだ。何も反応がなくては興醒めである。
 一喜は稀釈するなどして投薬量を調整し、表情は変えられても、からだがうまく動かない程度の効果にした。筋弛緩剤には、頭痛や肩こりを低減させるための効き目が弱いものもあり、それらも活用した。基本は経口摂取で注射器を使わなかったのは、針の跡が見つかってはまずいからだ。
 そこまでしても、万が一解剖されて、生前に無理やり性行為をされたと判断されてはまずい。挿入するときには、事前に大人のオモチャを使って充分に濡らした。いくら嫌がっても、肉体は反応してしまうもの。それでも無理ならローションを使用した。
 抵抗できないままペニスを挿入され、悔し涙をこぼす少女たちを眺めるのは、最高の気分だった。一喜は早々に昇りつめ、青くさい樹液を放った。
 そのときにコンドームを使用することもあれば、ナマで射精することもあった。後者の場合は、証拠が残らないよう膣内を洗浄した。
 薬品で自由を奪うことで、犯されて悲嘆に暮れる様も、死を前にした絶望の面差しも、ぞんぶんに愉しむことができる。騒がれる心配もなかったから、自宅での犯行が可能だったのだ。
 一喜が住んでいるのは、K──町のマンションである。一等地でも、家賃は高くない。治安がよくない上に、住人も暴力団員や風俗嬢など、ひと癖もふた癖もある連中ばかりだったから、事故物件並みの扱いだったのだ。
 木を隠すなら森の中と謂う。一喜も組員や犯罪者たちの中に紛れることで、まったく目立たずに済んだ。何しろ、ロビーに薬物中毒者がたむろしているようなところだ。マンションに少女を連れ込んでも、見向きもされなかった。
 最初の頃は部屋で殺し、大きなキャリーケースに入れて死体を運び出していた。痕跡が残らないよう、柔らかなものを使って首を絞めるか、鼻と口を塞ぐかして、命の灯火が消える様をじっくりと眺めた。まさに真綿で絞めるような殺し方を実践したのだ。
 あとになると面倒になり、まだ生きている少女をおぶって連れ出した。酔っぱらいの面倒を見ているフリを装い、ビルの屋上から投げ落としたのである。
 それらの所業を、最初からためらいもなくやり遂げられるほど、一喜は図太くなかった。
 最初に少女を殺したとき、一喜は吐いた。死体を見て気分が悪くなったのではない。自らの行為そのものに嫌悪が募ったのだ。そのため、二度とすまいと誓ったのである。
 ところが、時間が経ってそのときを振り返ると、今度は鳩尾のあたりが妙にざわつきだした。嫌悪を抱いたはずの行為が、甘美な記憶へと変化する。どうにも落ち着かなくなった。
 ──またやりたい。
 欲望がふくれあがり、抑えきれなくなる。ひとり殺すも、ふたり殺すも同じなのだ。何をためらう必要があろう。
 こうして、大都会の真ん中に、殺人鬼が誕生したのである。
 ふたり目と三人目を殺したとき、一喜は詳細な記録を残した。部屋に連れ込んで愉しむあいだと、殺す前、それから殺したあと。写真で、動画で、生から絶望、そして死に至る過程をデータとして残した。死体を処理したあとで、ゆっくりと振り返り、愉しむために。
 四人目からは、それをやめた。記録を振り返るよりも、行為そのものを愉しむほうが、ずっといいとわかったからだ。
 実際、最初に記録を取ったときは、カメラの位置や映り具合が気になって、レイプや殺害に集中できなかった。
 二回目の撮影はスムーズだった。だが、あとでビデオを見返し、確かに昂奮はしたものの、正直もの足りなかった。むしろ、早く次をやりたくて、気が逸った。
 記録を眺めて思い出にひたるぐらいなら、新たな獲物を手に入れたほうがいい。その結論に至って以来、カメラは棚にしまいっぱなしだ。
 ただ、記念として写真だけは撮っている。
 一喜はスマホを手にすると、下着を晒した女を撮影した。ピコッと軽やかな電子音が鳴り、ディスプレイにあられもない姿が表示される。
 いつもは、もっと若い少女たちを獲物にしている。十九歳というのは、これまでで最年長だ。太腿の肉づきもよく、やけにそそられる。
 そのぶん、殺しがいもありそうだ。
 今日、一喜は新しいことに挑戦するつもりでいた。息の根を止めたあと、死体をバラバラにするのである。肉塊と化したものを袋に詰め、あちこちのゴミ置き場に遺棄するのだ。
 そのまま収集され、他のゴミと一緒に燃やされるのか。それともカラスがほじくり返すか、ネズミが集まるかして発見されるのか。
 どちらにしろ、証拠さえ残さなければ恐れるに値しない。これまでずっとうまくいってきたのだ。今回も、それから今後も、捕まることはないはずである。
(切り落とすのは、やっぱり首からかな)
 これが五体満足である彼女の、最後の写真になる。そう考えると、軽い目眩を覚えるほどに昂奮した。
 罪悪感は微塵もない。むしろ、怨念がこみ上げる。
(お前らのせいだ……おれをこんなふうにしたのは、お前らなんだ!)
 激しい怒りもぶり返す。一喜は目の前に横たわる女を、敵意と憎悪にまみれて睨みつけた。

          2
 現在の勤務先に移る以前、一喜は出身大学の附属病院にいた。麻酔医として臨床に携わるばかりでなく、研鑽も積んでいたのである。いずれは教授にと、野心も抱いていた。
 あるとき、一喜は女性患者の告発を受けた。手術前に麻酔をかけられ、朦朧となっているときに猥褻行為をされたというのである。乳房や性器を舐められ、膣に指も挿れられたと。
 当然ながら一喜は否認した。ところが、彼女が所轄署に通報したため、院内に捜査の手が及ぶ。取り調べを受け、麻酔による譫妄だと反論したものの、行為があったと警察が決めつけているのは、口振りと態度から明らかだった。
 しかも、女性はあとになって、一喜に舐められたところを拭ったというガーゼを、証拠品として提出した。そこから彼のDNAが検出されたのである。
 そんなものがあるのなら、最初から出せばいい。一喜が使用した物を手に入れ、採取したDNAを移すなど、偽装の方法はいくらでもある。
 さすがに警察も、不自然な証拠に疑惑の目を向けた。それでまずいと思ったのか、女性側は猥褻被害の訴えを取り下げ、民事訴訟に出ると脅してきた。しかも一喜ではなく、大学病院を相手に。問題のある麻酔医を雇っているのは、管理責任者として問題があるというのが、先方の主張だった。
 あろうことか、大学病院側は示談に応じた。捜査が入った段階で医療機関としての信用が落ち、これ以上傷口を広げるのは得策ではないと判断したらしい。
 手打ちの場には、一喜も同席させられた。被害を訴えた女性は涙をこぼし、自身が傷ついたことを切々と述べた。
 さらに、一喜に向かって、麻酔で身動きの取れない異性としか向き合えない臆病者だと、人格を否定する発言を口にしたのである。さらに、パッとしない容姿についても、侮蔑の言葉を投げかけた。だから女性から相手をしてもらえず、卑劣なことをするのだと。
 一喜は屈辱にまみれ、怒りに身を震わせた。しかし、言い返すことは許されず、黙って耐え忍ぶしかなかった。
 示談が成立したのち、一喜は大学病院を辞めさせられた。表向きは自己都合による退職という体にさせられたが、事実上の解雇であった。
 自分は何もしていない、潔白だと一喜は訴えた。あの女性が賠償金目当てで、ありもしない猥褻行為をでっち上げたのだと。
 けれど、聞き入れられることはなかった。上司には、次の勤務先を世話するだけでも有り難く思えと言わんばかりの態度を示された。
 かくして、いずれ教授にという野心は絶たれた。たとえ研究を続けたとしても、猥褻行為で解雇されたなんて過去があれば、どこの大学も迎え入れてはくれまい。一麻酔医として、人生を送るより他ないのだ。
 一喜はくだんの女性に恨みを募らせた。髪を金髪に染め、それこそパッとしない素顔をメイクで映えさせただけの、ギャル風の女。煙草の吸いすぎであろう、薄汚く掠れた声でまくしたてたときの、ひとを小馬鹿にした態度も許せない。あんなやつは、この世に生きているだけで害悪だ。
 胸に燻る怨念を、一喜は本人ではなく、いずれああなるであろう少女たちに向けた。腐った女になる前に、成敗してやるのだと。そのために相応しい場所としてK──町を選び、住まいも移した。
 周到に準備をした上で、彼が最初の殺人に手を染めたのは、それからひと月後のことであった。

          3
「そろそろやるか」
 つぶやいて、一喜は女の下着に両手をかけた。すでに医療用の手袋を嵌めている。死体に証拠を残さないためだ。
 最も昂奮するのが、下着を奪って女性器を目にする瞬間だ。基本的なかたちに大差がなくても、やはり個性がある。恥毛の生え具合から皮膚の色、小陰唇の大きさなど、それぞれに異なっていた。
 さて、この女はどうかなと、胸を高鳴らせながら指先に力を込めた瞬間、
「ん……」
 小さな呻き声が聞こえてドキッとする。顔をあげて確認すると、女の瞼が少しだけ開いていた。
(なんだ、目を覚ましたのか)
 薬が効いているはずだから、起き上がることはもちろん、身動きすら満足にできないだろう。そして、自らが置かれた状況を悟るなり、恐怖に震えあがるのだ。
 未成年のくせに酒が飲みたいという彼女を、一喜は混雑している安居酒屋に連れて行った。客が多ければいちいち年齢確認などしないし、顔を憶えられる心配もないからだ。
 女は奢りだからと遠慮することなく、かなりの量を飲んだ。最後はベロベロになり、肩を貸して部屋に連れてくるなり、ベッドに倒れ込んだ。
 一喜が筋弛緩剤入りの水を飲ませると、彼女はすぐに眠った。行為の準備を整え、床に寝かせるあいだも目を覚まさなかった。
 筋弛緩剤の副作用で眠気が生じることはあるが、ずっと起きなかったのはアルコールの影響だろう。ならば、恥ずかしいところを男に見られる屈辱を味わわせてやろう。
「起きたのか?」
 声をかけると、女の瞼がさらに開く。目玉が動き、一喜の姿を捉えたようだ。
「う……あ──」
 何か言おうとしているようだが、声は出てこない。いや、出せないのだ。
(よし、ちゃんと効いてるな)
 一喜はほくそ笑み、下着からいったん手をはずした。膝をついたまま、女の上半身の横に移動する。
「動けないんだろ? 当然さ。薬が効いてるんだからな」
 顔を覗き込み、どういう状況にあるのか教えてやると、女の目が大きく見開かれた。茶色がかった瞳がカラーコンタクトであることに、一喜は初めて気がついた。
「あ、ア──」
 半開きになった彼女の口の中で、舌が小刻みに震えている。ハッハッと、喉が急かすように息を吐き出すのも聞こえた。
「これからどうなるのか、わかるよな。お前はおれにレイプされるんだ」
 命を奪うことは、まだ伏せておく。愉しみはあとに取っておきたい。
(待てよ。生きたまま切り刻むっていうのも、面白いかもな)
 猟奇的な場面を想像し、激しく昂奮する。
 一喜は勃起した。ブリーフの中でいきり立ったペニスが、ズボンの前にみっともないテントをこしらえる。
「うう……」
 女が呻く。悔しげに顔を歪めたのは、目の前の男が昂っているとわかったからだろう。これからこいつに犯されるのが、悔しくてたまらないのだ。
 一喜はほくそ笑んだ。大学病院を辞めさせられた恨みは、未だ消えていなかったものの、少しは溜飲が下がった。
(そう言えばこいつ、あの女になんとなく似ているな……)
 ギャル風の女など、どいつもこいつも似たり寄ったりだが、メイクの感じが一緒だ。そうすると、素顔は大したことがないのだろう。
 胸の内で侮蔑を並べ、動けない女を睨みつける。未だ反抗的な目を見せているが、ペニスを突っ込まれたら、案外ヒィヒィとよがるのではないか。
(そうさ……こんなやつ、ヤリマンに決まってる)
 不道徳な風潮と、性感染症を撒き散らすだけの存在だ。さっさと処分するのが、世のためなのである。
「待ってろよ。すぐにこいつを挿れてやるからな」
 股間の高まりを握りしめて通告すると、初めて女の表情に怯えが浮かんだ。
「あ……」
 口をパクパクさせ、必死に何かを訴えようとする。
 何を言われても、聞く耳を持つつもりはない。それでも、いちおう耳を傾け、冷たくあしらうのがいつものやり方だ。そうすると、女は悲嘆の涙をこぼすのである。
 こいつの泣き顔も見てやるかと、一喜は身を屈めた。女の口許に耳を近づける。
「どうしてほしいんだ? 言ってみろよ」
 小気味よくて、頬を緩めて問いかける。まともな発声ができなくても、彼女は必死になって何かを訴えるであろう。それもいつものことだ。
 すると、
「──今までに、何人殺したの?」
 はっきりした声で質問され、ギョッとなる。
「な……お前!」
 焦ってからだを起こそうとしたとき、太腿のあたりに鋭い痛みを感じた。
「ぐはッ!」
 息の固まりを吐き出した次の瞬間、全身から力が抜ける。
 女が素速く身を翻す。スペースの空いたシートの上に、一喜はひっくり返った。
(え、何だ!?)
 さっぱり訳がわからない。天井を見あげ、「あーあー」と言葉にならない声を発していると、女が覗き込んできた。
「動けないでしょ? どうしてなのか、わかるわよね。今までさんざん、女の子たちを同じ目に遭わせてきたんだから」
 そう言って彼女が見せたのは、注射器であった。
「筋弛緩剤。あなたの得意分野よね」
 さっきの痛みの原因を、一喜はようやく理解した。
(だったら、どうしてこいつは効いていないんだ?)
 アルコールの作用も考慮して量を減らしたのであるが、それがまずかったのか。
「わたしはどうして動けるのかって顔してるわね。拮抗剤ぐらい、あなたも知ってるでしょ」
 女が見下した目つきで言う。薬の効果を弱めるものだ。それで弛緩剤の効果を打ち消したらしい。
「あ……ううう」
 一喜は呻いた。そんなものがあるのなら、おれにも寄越せと言ったつもりだった。
「無理よ。あげられないわ」
 声にならずともわかったらしい。女は冷たく言い放った。
 筋弛緩剤に拮抗剤まで持っているということは、こいつも医療関係者なのか。少なくとも刑事ではなさそうだ。囮捜査だとしても、こんな真似をするはずがない。
「ところで、わたしが見つけた遺体は四体だけなんだけど、もう一度訊くわね。何人殺したの?」
 質問に、一喜は絶句した。とは言え、そもそも喋れなかったわけだが。
「まあ、いいわ。どうせ答えられないんだろうし、それに、もっといることはわかるもの」
 女は天井を仰ぎ、目を閉じた。小鼻をふくらませ、瞑想のような面差しを見せる。
「少なくとも、あと四人……匂いでわかるわ」
 匂いなど残っているはずがない。いつもコトのあとは、部屋を隅々まで消毒している。痕跡など残していないのだ。
(こいつ、霊媒師か何かか?)
 死者の霊と話しているのかと、一喜はあり得ないことを考えた。オカルト的なことは、一切信じていないのに。
 それだけ彼女が、不気味だったのである。
 女が目を開く。一喜を見おろし、首をかしげた。
「このあたりは、わたしもよく通ってるの。匂いがするから、遺体はよく見つけるんだけど、明らかに自殺に見せかけたものがいくつもあったわ。しかも、生前にレイプされたものが。それで、どうにかしなくちゃと思って、ずっと犯人を捜してたのよ」
 また匂いなどと言う。霊媒師ではなく、犬かもしれない。
(まさにビッチだな)
 一喜は胸の内で侮蔑した。今の彼には、それが精一杯の抵抗であった。
「正直、もっと早くあなたを見つけたかったんだけど、けっこう手こずってね。拘束の跡がなくて、どうやって女の子たちの自由を奪ったのか、はっきりしなかったし。だけど、ようやく筋弛緩剤だってわかって、道が開けたってわけ」
 ということは、発見した遺体を調べて、そこまで明らかにしたのか。
(まさか、法医学者か?)
 この若い女が、司法解剖の担い手だというのか。
 病院以外で発見された異状死体で解剖されるのは、ここ首都でも二割に満たない。自殺だと判断され、死因も明らかなら、わざわざ解剖されることはないと思っていたのに。
 いや、そもそも法医学者であれば、明らかになった事実を警察関係者に伝えるだけだ。自ら捜査などしない。それに、彼女の口振りからして、本当に道端の死体を見ただけで、死因まで特定したようなのだ。
 女が自身の金髪を掴んで引っ張る。それはウィッグだった。下から現れたのは、艶やかな黒髪だ。
(騙された──)
 顎がうまく動かないにもかかわらず、一喜は奥歯をぎりりと噛んだ。こいつは獲物に相応しい格好をして、誘われるのを待っていたのだ。どうりで、声をかけたら簡単について来たはずである。
 女はあたりを見回し、ウェットティッシュを見つけると、それで顔を拭った。メイクが落とされ、晒された素顔は、密かに想像したパッとしないものではなかった。
(嘘だろ……)
 何も塗らなくても綺麗な肌に、理知的な趣のある端正な顔立ち。実年齢は十九歳より上だろう。派手派手しい化粧をして、生意気で下品な面構えに見せていたのだ。腕の傷も拭い去られ、特殊メイクだったことが判明した。
「自傷行為の跡があれば、遺体が見つかっても自殺だと見なされると思ったのね」
 女が断言する。発見した死体に自らつけた傷があったから、そう推理したようだ。
 次々と事実を言い当てられたのに、一喜はいつしか安堵していた。これだけの美人なら酷いことはしまいという、根拠のない思い込みからであった。
「被害者は、いつも同じタイプの女の子。それに、筋弛緩剤を手に入れられる人間は限られるから、あなたを特定するのに時間はかからなかったわ。被害者と同じタイプの女性に訴えられて、大学病院を辞めさせられた岩田一喜だってね」
 名前を口にされ、一喜は万事休すかと諦めかけた。
(──いや、おれがやったっていう証拠はないんだ)
 これまで殺した少女たちに関して、捜査が行われている様子はなかった。死体もとっくに火葬されているのだろうし、物的証拠は皆無だ。
 唯一、今日のことだけは言い逃れができない。しかし、殺すと脅していないから、せいぜい強姦未遂だろう。余罪を追及されても、知らぬ存ぜぬで押し通せばいい。匂いがどうこうなどとぬかす妙な女の言い分など、警察が本気にするわけがないのだ。
 ようやく胸を撫で下ろした一喜であったが、女が大袈裟にため息をついたものだから、心臓が不穏な高鳴りを示す。
「あなたがやってもいないことで辞職させられたのなら、ちょっとは同情してあげてもいいけど、実際にしてるんだものね、猥褻行為を。ただの逆恨みじゃないの。しかも、あの女性が初めてじゃないし」
 女の言葉に、一喜は激しく狼狽した。
「ようするに、あなたは麻酔なり筋弛緩剤なりで動けなくした女性しか、相手にできないってことなのよ。まあ、見た目もパッとしないし、性根もねじまがっているから無理ないわね」
 あのときの女と同じことを口にされても、半ばパニックに陥っていたため、憤る余裕もない。事実、その通りだったからだ。
 生まれてこの方、一喜は異性と親しい付き合いをしたことがない。根が臆病なのと、容姿にコンプレックスがあったからだ。それでも性的な関心と欲望はひと一倍強く、麻酔で眠っている女性患者に悪戯をしたのである。
 だが、中には体質的に、麻酔の効きにくい者がいる。訴えたあの女がそうだったらしい。まずいことになったと焦りつつ、一喜はやっていないと否定した。認めたらおしまいだからだ。
 DNA付きのハンカチを出されても、偽装されたものだとすぐにわかったのは、決して証拠を残さないよう、細心の注意を払っていたからである。それこそ、少女たちを殺したときと同じように。慎重なのは、昔から変わっていなかったのだ。
 なのに、この女にはすべてバレている。いったいどうやって調べ上げたのか。
(ひょっとして、探偵か?)
 正体が皆目わからない。すると、彼女がやれやれというふうに肩をすくめた。
「どうして大学病院側が、あなたの言い分を聞かなかったのかわかる? 他にも訴えがあったからよ。一部の患者さんがからだの変調を口にしただけじゃなく、同僚の医師や看護師からもね。女性患者のときだけ麻酔から覚めるのが遅いとか、手術の前に何かこそこそやってるとか、ずっと怪しまれていたのを知らなかったの? 本当なら退職どころか、懲戒解雇でもおかしくなかったのよ」
 一喜のショックは大きかった。あのときは、なんて冷たいのかと大学病院を恨んだが、まさか温情をかけられていたなんて。
「ただ、女の子たちを殺したときと同じで、何も証拠がなかったから、病院もどうしようもなかったみたいだけど」
 女の言葉に、一喜はようやくひと筋の光明を見た。
(なんだ……証拠がないって、こいつも認めているんじゃないか)
 ならば恐れるに足りない。
「あら、笑ってるの?」
 女が眉をひそめる。顔の筋肉がまともに動かない中、頬が緩んだのはわかったらしい。
「まあね、わたしもレイプ未遂なんてちんけな罪で、あなたを訴えるつもりはないし、警察沙汰にはしないであげるわ。もちろん、相応のものはいただくけど」
 では、目的は脅して金を取ることなのか。だが、何の証拠もないのに、こんな女の言いなりになるつもりはない。
(最初だけ従順なフリをすればいいのさ。油断したところで、たっぷりとお返しをしてやる)
 今度こそ犯して、八つ裂きにしてやろう。邪悪な感情が頭をもたげる。
 そのとき、女の表情が変化する。キッと引き締まり、鋭い眼光で一喜を見据えた。
「いただくのは、あなたの命よ」
 女がすっくと立ちあがる。短いスカートの中に灰色の下着が見えて、一喜は反射的に目を奪われた。
 そのため、言われたことを理解し損なう。
 一度目の前から消えた女が、再び戻る。ガラスの小瓶を目の前に差し出した。中に透明な液体が入っている。
「これ、何だかわかる? 塩化カリウム溶液よ」
 そう言った女の目には、冷たい光が宿っていた。
 血液中のカリウム濃度が上昇すると、心不全を引き起こす。死刑にも用いられる薬物だ。
(おれは、こいつに殺されるのか──)
 一喜は恐怖を覚えた。しかし、こんな美人に非道なことができるはずないと、必死で自らに言い聞かせる。差し迫った苦境から逃れたい一心からの、自己防衛だったのか。
 女がじっと見つめてくる。心の内側まで見通すような、深みのある眼差しで。
「ひょっとして、女のわたしに殺しなんてできないと思ってる?」
 またも見抜かれて、一喜は動けぬまま唇を震わせた。
「あのね、ひとを殺すなんて簡単なの。ていうか、人間は簡単に死ぬのよ。病気でも、事故でも。テレビや映画の殴り合いシーンなんて、みんな嘘っぱち。あんなにやられて、生きてるはずがないじゃない。わたしだって、あなたを殴り殺すぐらい簡単にできるのよ。要は殺人を実行するかしないか、それだけのことなの」
 女がふっと頬を緩める。やけに冷たい微笑だった。
「ま、何人も殺してきたあなたには、わかりきったことよね」
 さっき筋弛緩剤に使った注射器に、塩化カリウム溶液が吸入される。どれだけの濃度なのかわからないが、おそらく死に至るには充分な量なのだろう。
「命は儚いからこそ、大切にしなくちゃいけないの。そんなこともわからないようなあなたに、生を全うする資格はないわ。この場で死になさい」
 冷酷な死刑宣告の後、女が小気味よさげに笑った。
「そうね。あなたが死んだあと、ズボンとパンツを脱がしておくわね。それで、いやらしいビデオも再生しておいてあげる」
 そう言った彼女の視線の先には、テレビとDVDプレイヤーがあった。
「検死しても心不全だとしかわからないし、オナニーの最中に心臓が停まったんだって判断されるでしょうね。それがあなたの死因よ」
 女が注射器を手にする。一喜は心の中でやめろと叫び続けたが、必死の訴えが届くことはなかった。
 いや、仮に届いたところで、彼女はやり遂げるのだろう。
「塩化カリウムが血液中に入ると、焼けるような痛みがあるそうよ。それこそ、地獄で焼かれるにも等しい苦痛じゃないかしら」
 脅しの言葉に、涙がこぼれる。自分が少女たちに何をしてきたのか、一喜は同じ目に直面してようやく理解した。
 しかし、すでに遅い。
「女の子たちがどれだけのつらさや悲しみを味わったのか、思い知りなさい」
 腕に注射針が刺さる。続いて、猛烈な熱さが侵入してきた。
「うが、が、ぐはぁああああ」
 動けないはずなのに、一喜はじたばたともがいた。それだけ強烈な痛みと熱さを感じたのである。
(助けて……神様──)
 無駄な祈りを捧げても、聞き入れられるはずがない。地獄のほうがマシと思える苦痛は、命果てるまで続いた。

          4
 早朝、死体発見の通報を受け、現場に駆けつけたK──町警察署捜査一課の滝本は、そこにいた人物にあきれた目を向けた。
「またあなたですか」
 制服警官に発見時の状況を伝えていたのは若い女性──塩崎依久美であった。
「え、また?」
 警官が怪訝な面持ちを見せる。まだ若いから、配属されて間もないのであろう。
「ああ、このひとは常習なんだよ。死体発見の常習者」
「まあ、常習者だなんて」
 依久美が不満げにこぼす。しかし、つぶやきに近い声だったから、滝本には聞こえなかった。
「それで、状況は?」
「はい。遺体は高齢男性で、身分証は見つかっておりません。身なりからしてホームレスと思われます」
「事件に巻き込まれた可能性は?」
「検視官の見立てですと、外傷はないようですし、病死ではないかと」
「そうか。だったらおれたちの出番はないな」
 滝本がうなずく。そのとき、
「……そうかしら」
 依久美の声が聞こえた気がした。
「ン、何か?」
 滝本に声をかけられ、依久美はハッと身じろぎをした。
「いえ、何も」
 オドオドしたふうに、首を横に振る。
 死体発見の現場で何度も顔を合わせたため、滝本は依久美が犯罪に関わっているのではないかと疑ったことがあった。けれど、染めていない黒髪と無粋な黒縁眼鏡が、生真面目な性格を物語っている。死体を見ても顔色を変えないわりに気弱げだし、刑事としての勘も、人畜無害の女性だと結論づけていた。
 それに、死体をよく見つけることについても、彼女の素性を聞いてなるほどと納得されられたのである。
「そう言えば、そこのマンションで昨日、規制線が張られていたようですけど、何かあったんですか?」
 依久美の質問に、滝本は「ああ、そうですね」とうなずいた。
「死体が見つかったんですよ。死んでから日が経って、かなり腐敗したものが」
 知った間柄ゆえ、気軽に打ち明ける。それに、彼女も関係者みたいなものなのだ。
「そうだったんですか……それは事件か何かで?」
「まあ、妙な連中が住んでいるマンションですし、いちおう事件性を疑ったんですけど、そうじゃないようですね。自然死というか、必然死というか」
 曖昧な返答に、依久美が眉をひそめる。
「え、必然?」
「いや、一種の事故死ですよ」
 自慰による心臓マヒだなんて、若い女性に詳細を語るのがはばかられたため、滝本は死者が何者かを説明した。
「死体は病院の麻酔医だったんですけどね。ずっと連絡が取れなくて、職場のほうでも探していたそうなんですが。何でも前のところから引っ越したあと、新しい住所を知らせてなかったっていうんですよ。まあ、こんな物騒なところだから、あまり言いたくなかったのかもしれませんが」
 連絡が取れなかったのは当然だ。被害者の画像データが保存されたスマートフォンは、粉々に破壊されたのだから。ハードディスク内蔵のビデオカメラと一緒に。
 それを知っているのは、依久美だけである。そんなことはおくびにも出さず、「そうだったんですか……」と相槌を打つ。
「おそらく、都心でも家賃が安いから、引っ越したんでしょう。まあ、さすがにマンションの中だと、塩崎さんも死体を見つけられませんよね」
 滝本がからかうと、依久美は恥ずかしそうに目を伏せた。
 彼女が通報したぶんだけでなく、もっとたくさんの遺体を見つけていたことを、滝本は知らない。さすがに怪しまれると、その場にいた他人に通報をお願いしたり、わざと悲鳴を上げて周囲のひとびとに知らせたりしていたのである。
「それでは、わたしはこれで」
 依久美がぺこりとお辞儀をする。滝本は「ああ、どうも」と右手を挙げた。
「確認することが出てきましたら、大学のほうに連絡しますので」
「わかりました。失礼いたします」
 立ち去る依久美の後ろ姿を、滝本はしばらく見送った。装飾のないブラウスにロングスカートと、顔立ちと同じく地味な身なりにもかかわらず、やけに惹かれるのを感じて。
(おしゃれをしたら、見違えるほど美人になりそうなんだけどな)
 もっとも、刑事としての勘は犯罪の見極めにのみ力を発揮し、女性についてはまったく役に立たない。だから四十路近いのに、未だに独身なのである。
 ただ、いくら美人でも、死体の有無を嗅ぎ分けるような女性と、お付き合いをしたいとは思わない。
(最初のとき、妙なことを言ってたんだよな……匂いがどうとかって)
 ともあれ、いちおう現場を見ておこうかと、滝本は規制線の内側に足を踏み入れた。

(やっぱり、道を間違ったのかな……)
 ○○大学医学部、大学院生の勝見茂行は、もう何度目かになる後悔を噛み締めた。
 昔から医者になるのが夢で、茂行は迷わず医学部に入った。ところが、症例などを学ぶうちに、ひとの生死に関わることが怖くなってきた。判断を誤れば、患者を死なせてしまうかもしれないのだ。
 司法解剖を行なう法医学教室に進むことにしたのは、遺体を相手するほうが気楽だと考えたからである。少なくとも、判断を誤って命を奪う心配はない。すでに死んでいるのだから。
 しかし、そのときイメージしていたのは、死後間もない遺体である。煮崩れを起こしたみたいな腐乱死体まで扱うとは、想像もしなかったのだ。
 まだ院生だから、法医学教室では助手の役割しか与えられていない。遺体を運んだり、器具を準備したり、臓器を保存したり。
 それでも、解剖室にいれば否が応でも切り刻まれた遺体を目にするし、腐敗臭も嗅ぐことになる。そんな日常を送っていれば、行く末に悩みを抱くのも当然だ。
 このまま法医学者になったら、自分が解剖せねばならない。やり遂げられる自信は、これっぽっちもなかった。
(……たぶん先輩は、こんな悩みとは無縁なんだろうな)
 そう思ったとき、
「おはよう」
 当の本人から挨拶され、茂行は心臓が停まりそうになった。
「おお、おはようございます」
 振り返って挨拶を返すと、彼女──依久美はすでに術衣に着替えていた。
 ここは院生の控え室である。茂行は彼女よりも先に来ていたのに、まだ私服のままグズグズしていたのだ。
「早く着替えたほうがいいわよ。もうご遺体は届いてるんだから」
 静かな口調で諭され、「はあ」とうなずく。それでも立ちあがれずいる茂行に、依久美は眼鏡の奥の目を細めた。
「まだ迷ってるの?」
 問いかけに、無言でうなずく。先日、彼女に夕ご飯を誘われて、そのときに法医学教室でやっていく自信がないことを打ち明けたのだ。
「そう。もしも進路を変更するのなら、早めに決心したほうがいいわ。でないと、ご遺体に失礼だから」
 後輩よりも死んでいる人間を優先する発言に、茂行は我知らず顔をしかめた。
「失礼って……」
「わたしたちは、ご遺体から学ばせていただくの。その気持ちがないのなら、ここにいる意味はないわ」
 静かな口調なのに、妙に迫力がある。たった一年しか違わないのに、依久美はずっと先を歩いている気がした。
「わかりました……努力します」
「うん。頑張って」
 励まして、彼女が口許をほころばせる。普段はポーカーフェイスで、滅多に笑顔を見せないぶん、やけにチャーミングであった。
 おかげで、心臓が高鳴る。
「そう言えば、昨日K──町のマンションで見つかった遺体、以前ウチの附属病院にいたひとらしいですね」
 ふと思い出して告げると、依久美が「あら、そうなの?」と首をかしげる。
「はい。外科の友達が教えてくれました。麻酔科にいたそうです」
「ふうん」
 彼女はさほど興味なさげにうなずくと、
「じゃあ、わたしは先に行くわね」
 言い置いて、控え室を出て行った。
「……さてと」
 茂行は腹にむんと力を入れ、席を立った。
(もう少し、やってみようかな)
 励ましてくれた、依久美のためにも。追いつくのは、かなり難しそうであるが。
(なんか、先輩には天賦の才能があるみたいなんだよな)
 そんなことを考える茂行であった。

          5
 解剖室に入ると、ストレッチャーの上に納体袋があった。あとで警官が来て、解剖前に遺体について説明をしてくれるはずである。
 見慣れた光景を前にして、依久美の脳裏には、今朝発見した遺体が浮かんでいた。
(違うわ。病死なんかじゃない)
 他殺だとわかったから、自ら通報したのである。なのに、検視官の見立てを信じて、出番がないと言い切るなんて。
(まったく、頼りないんだから)
 顔見知りである滝本刑事に、苛立ちを覚える。悪いひとではないけれど、安易な判断に流される傾向があるのだ。
 ここはうまく手を回して、司法解剖ができるようにしなければ。それが無理なら、また自分で動くしかない。
 依久美は納体袋のファスナーを開けた。入っていたのは、三十路過ぎと思われる女性だった。
 中にこもっていた匂いを、深々と吸い込む。亡くなって、三十時間というところだろうか。
「……あなたは、どうしてここに来たの?」
 依久美は遺体に問いかけた──。

※この物語は完全なるフィクションであり、実在する個人、団体、地名、または実際の事件・出来事とは、一切関係ありません。

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