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父と母と、それから私

私の両親は教師だった。
教師、という言葉から連想されるイメージとは程遠い、型破りな教師だった。

まずは母。
銚子の酒屋の娘として生まれた母は、高校生の時に大きな病気をし、手術と入院のため1年留年した。
大学で薬剤師の資格を取得し、途上国で医療従事しようと考えたが、持病のため難しいことがわかり、薬剤師として就職活動を始めた。
東京の大きな病院の最終面接で、今までの最大摂取酒量を聞かれ自信満々に「一升二合です!」と答え、もしこの病院で働けた場合の満足度は何%ですかと聞かれ正直に「20%です!」と答え、当然のように不合格になるが、本人は落ちたことに憤慨した。

その後、製薬会社に就職が決まるも、卒業直前で「やはり教師になりたい」と1年留年し、教師となった。
そして出産は難しいと言われていたのに、母と同じ持病を持つ人としては初めて子供を産んだ。しかも2人も。

教師として新卒の頃、廊下でヤンキーの生徒たちを注意したら、数人に囲まれてつばを吐かれた母は、口に思い切りつばをためて、360度回転しながら自分を囲んだ生徒全員につばをはきかえした。

性教育の授業で余ったコンドームを、膨らませて、風船だよと、当時5,6才の私と妹のおもちゃにしたし、浣腸は甘いと味見させた。
(ちなみに性教育の授業で「コンドームを教えることは中学生に性行為を認めることになる」という考えの校長とぶつかったりもしていた。)

中学の時、私の授業参観に来て帰りの会に出席した時は、どの生徒よりも大きな声で帰りの歌を熱唱した。
でも勤務する学校の卒業式では、決して君が代は歌わなかった。

私が友達に仲間はずれにされて相談した時は、「目には目を、歯には歯をだよ。やり返しな!」と助言した。

ベンジンを薄めてスプレーすると髪が少しづつ茶色くなって気づかれにくいことを、高校生の時に教えてくれたのも母で、
その結果私は、人生で初めて生活指導室に呼び出された。

人生はじめての海外はニューヨーク。テロの直後だった。
「お母さんは反戦デモに行く、お父さんは美術館にいく。どっちについて来る?」とどっちも選びたくない2択を与えられ、
結果私は10万人規模のデモに参加し、「No war」と叫んだ。


父。
マルクス経済学を研究していた父は、共産主義国家が衰え、資本主義が強くなっていく中で大学院の博士課程の論文がかけずに、なんと大学に16年もいた。結婚してから少しの間は母のひも生活だった。

大学時代は仙台から実家の千葉まで歩いて帰ってきたこともある。

教師になってから、ゲームのファイナルファンタジーにはまっていた時は、生徒の家に電話をかけてその攻略法を聞いていた。生徒のお母さんは先生から電話が来たから何事かと思ったらしい(そりゃそうだ)

学校になかなか来れない生徒がやっとの思いで、でも遅刻して登校した時には「よく来たな」と声をかけ、出席日数と成績が足りない生徒を、なんとか退学にならないように手はずしたりしていた。

卒業しても、毎年のように父と母を訪ねてくる生徒さんたちがいた。

私が夜遅くまで受験勉強していると、そっとドアを開けて「そんなに勉強すると、馬鹿になちゃうぞ♪」と言い放ち、「じゃ、父さんは寝るわ、おやすみ♪」と寝室に入っていった。
大学生になった私には「普通に生きていくってことが、一番難しいんだぞ」と言った。

「普通に生きていくってことが、一番難しいんだぞ」の言葉の意味を、今度帰省した時に聞いてみよう。

「なおこ、そんな頑張らなくていいんだよ、急がなくていいんだよ。」お父さんは私にずっとそう言い続けている。

お父さんとお母さんが、自由ゆえ、そして本質をまっすぐ見つめる性質ゆえ、ばか正直ゆえ、優しすぎるゆえ、
衝突したり、意地悪をされて、苦労をしてきたのを見てきた。

お母さんは猪突猛進。まさにイノシシのように当たっては跳ね返され、また当たっては砕け、それでも当たり続けていた。

お父さんは、ある意味で戦うこと、体制を変えることを選ばず、自分の手の届く人を助けていた。

お母さんはともかく、お父さんは随分と牙をしまっておとなしく友好的にしていたと思うけれど、
それでもたまに生徒のことをめぐってどうしても譲れないことでは意見を主張したりしていた。

そんなことで、校長に目をつけられ、嫌がらせのように、大変な学校に転勤させられ、心身ともに体調を崩したりもしていた。

まぁ、はっきりいって校長先生の立場から見れば、やっかいだったことには間違いないと思う。

もっとうまくやればいいのに。
と思う一方で、
「どうしてこんなに真っ直ぐで頭が良くて人思いの優しい人たちが、こんなつらい思いをさせられているのだろう。生徒にとっても、マイナスなはずだ。」と思っていた。

一方で、ふたりはその状況をどこかうまく楽しんでもいた。

猪突猛進の母は、跳ね返される度、「くっそ〜〜あいつ〜〜!次は別の手でギャフンと言わせてやるわ!」と張り切っていたし、
父は若白髪(30代後半で結構全体的に白かった)なのをいいことに、同僚に年を勘違いさせておじいちゃんと思わせ、
運動部の顧問とかそういう大変な仕事からうまく逃げていた。そして毎日7時には家にいて、毎日家族全員で食卓を囲んだ。

そのどっちともつかないあり方が、今の私が雪辱戦をしていない理由なのだろう。

この人達がこんなに苦労して生きていく社会は違うと思うし、社会にとっても損失だ。
お父さんとお母さんのような人が、もっと楽に、そのままで生きていけるように、個人の心の持ちようと、社会のあり方の両側面から探求しよう。

これが多分私の原点。

そのための処世術を徹底的に叩き込んだ。
人を観察し、どのような時に、どう感じるのか。感情に影響を与えるファクターはなんなのか。
調べ、試し、また調べ、試し。趣味は人間観察だった。
人間関係を良好に保つことは、10代の私にとっては、生存戦略でもあり、そして実験でもあった。

私のとった戦略は懐柔策。
相手を敵にしたらめんどくさいので、敵にしないように。
相手の懐に潜り込み、たらしこんで、味方にする。
私はあなたのことをわかっていますよ。という存在だと認識させる。

それだけでこんなに生きやすいのかと驚いた。

そうしているうちに、ひとりひとりの心のあり様の多様さに、美しさに魅了されるようにもなる。
本当はひとりひとりの心は、感性は、こんなに多様で、鮮やかで、儚くて、美しいのだと。

あぁ、私がみていたのは、人のたった一側面にしか過ぎなかったのだと。

父と母にひどい事をした校長先生は、どんな人だったのだろう。何を守りたくて、何を大切にしたい人だったのだろう。

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海外での経験は、私をさらに自由にさせてくれた。
海外に行っていたことで「多少空気読めなくてもしょうがない」という謎の免罪符が貼られることもありがたかったのだけれども(笑)、

こんなに枠からはみ出ても、誰にも責められない世界があるのだと。
いやその国の常識からはみ出たら、その国の人には責められるのだ。

そうじゃなくて、枠(常識)というものが、こんなにも不確かで流動的なものなのだと、いくらでも変えられるものなのだと、知れたことが大きかった。

この国に行けば自由になれる!そんな国はないけれど、自分の枠を知って、そっと取り外したり、戻したりすることはできるんだ。

日本の常識では考えられない、国々の常識を紹介しよう。

例えばバリでは、仕事よりも地域での祭りの役割の方が重要なので、仕事で祭りに出られないのであれば、仕事の方をやめることが珍しくない。

フィジーでは、「みんなのものは俺のもの、俺のものはみんなのもの」なので、自分が干していたTシャツを、友達が勝手に着ていることがある。

ボルネオ島の狩猟採集民族プナンの世界では、反省の概念がない。なぜなら、日々成長しなくてはいけないという概念がないので、未来を良くするために反省する必要がないからだ。

私たちが持っている、所有の概念、時間の概念、成長の概念。当たり前だと思っているけれど、実は当たり前でないこと。

所有の概念。地球上のものは、もともと誰のものでもない。酸素、日光、土壌など人間が生きていく上で必要なものは無料で与えられている。

時間の概念。時間は過去から未来に向かって均等に直線に流れているというのが近代社会の時計で生活する私たちの一般的な捉え方。他に、楽しい時間とつまらない時間の流れる速度は一定ではないという捉え方もあるし、今しかないという捉え方もあるし、他の捉え方もあるだろう。

成長の概念。昨日より今日、今日より明日、がよくなるように。よくなると幸せになるのだろうか。

この「人に対する探究」はきっと私が生きている間ずっとしていく類のものだろう。
息をするように気づくと勝手にしていること。

校長先生の気持ちはわかったようでわからない。
10代の私と、
20代の私と、
40代を目前にした今の私、
それぞれが想像する校長先生の気持ちは、全部ちょっと違う。
校長先生の気持ちは、一生わからないけれど、年を経るにつれて、見えている景色が、捉えている人物像が、変わってくるのがたまらなく面白い。

この文章もきっと毎年更新していくんだろうな。そういう意味ではサクラダファミリアのように完成しない文章。今の私をここに記す。

#創作大賞2023 #エッセイ部門


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