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《時代とシンクロした水島マンガ》 神奈川高校野球の隆盛と、神奈川を舞台にしたドカベン

 「神奈川を制するもの、全国を制す」
 70年夏の選手権を制した東海大相模に始まり、71年夏は桐蔭学園が、73年には横浜高校が春のセンバツ優勝と、70年代前半、神奈川勢の躍進が続いたころから使われ始めた言葉だという。
 なかでも象徴的な存在といえば、74年に東海大相模に入学した原辰徳。同じく人気球児だった定岡正二擁する鹿児島実業との夏の甲子園準々決勝は、テレビ視聴率34%を記録。第4試合で最後はナイターとなったこの一戦、当時は試合時間が長くなるとNHKのテレビ中継は打ち切られるのが常だったが、この試合でも中継を打ち切りにしたところ、NHKに抗議電話が殺到。翌年以降は中継が継続されることになった。NHKの中継ルールまでも変えてしまうスター球児だった。
 翌75年には、原人気の勢いを受けて、高校野球専門誌『輝け甲子園の星』が創刊。創刊号の表紙はもちろん、東海大相模高校2年、原辰徳クンだ。当時、タツノリ見たさに、学校のグラウンドだけでなく、試合を行う保土ヶ谷球場や川崎球場は人で溢れかえることは珍しくなかった。
 その「神奈川野球熱」はその後も受け継がれ、今も神奈川大会は入場困難なほどの盛況ぶり。もちろん、神奈川県の高校野球が全国を牽引する強さなのも変わりはない。そんな神奈川を舞台に、原入学に先んじること2年前に始まったのが『ドカベン』だ。文庫版のあとがきでは、その原辰徳が当時の神奈川高校野球事情を解説してくれている。

 高校野球編になって、山田、岩鬼達の明訓高校、不知火の白新高校、雲竜の東海高校、土門の横浜学院ら神奈川県を舞台にした強豪校が甲子園をめざしてシノギを削り「神奈川を制するものは全国を制す」と謳っていたよね。実際、当時の神奈川県は僕ら東海大相模高、法政二高、桐蔭学園、横浜高校、Y高(横浜商業)とやたら強かった時期だし、東海大相模高のチームメイトは(中略)山田太郎、岩鬼のような個性の強い男達の集まりだったから「ドカベン」には愛着があったんだ(『ドカベン』文庫版16巻)

 野球マンガに限らず、スポーツマンガの構成で難しいのは、地方大会のレベルを高くしすぎてしまい、全国大会でインフレが起きてしまうこと。その点、神奈川が全国屈指の強豪揃いという設定に無理がない『ドカベン』では、県大会がどれだけ熱戦になっても「そりゃ神奈川だから」と妙な納得感を生み出し、作品のリアリティ醸成につながっていた。

 余談だが、神奈川野球人気に一役買った水島新司と原辰徳が96年4月、ある記念式典に同席している。神奈川県大和市に誕生した引地台野球場、通称「ドカベンスタジアム」のオープニングセレモニーだ。神奈川野球の隆盛に貢献したドカベンは、ついに球場名を冠するまでになったのだ。そのオープニングセレモニーでは、水島新司がこんな挨拶を残し、神奈川を舞台にした理由を明かしている。

野球は楽しい 捕れそうもない打球を捕った時のあの感動! バットにボールが当たったときのあの感動! それはなんとも言えない気持ちです。「ドカベン」はそんな仲間達がひとつになって目標に向かう「和」を描きたかったのです。舞台を神奈川にしたのは、昔からそんな少年達であふれ、高校野球のレベルが高かったからです。ですから“神奈川を制するものは全国を制す”と言われてきたのです(『月刊体育施設』1997年5月号より、水島新司挨拶文の一部を引用)

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70年代のプロ野球、高校野球の出来事で、先に水島野球マンガが描いていた予言的なエピソードを紹介します。

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