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マルチ人。の絶叫伝記 ~小学生編 ①突然訪れた家庭の崩壊~

1991年3月。東京都、練馬区。

それは突然、おとずれた。
小学校1年生が終わる頃に起こった出来事。
いまだに、その時のことは鮮明に覚えている。
衝撃的過ぎて。
瓦礫が崩れる音が響きすぎて。

………突然の両親の離婚。

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私(マルチ人)は山川(やまかわ)家(仮名)の次男として生まれて、両親、2つ上の兄、3つ下の妹の5人家族で小さな2DKの狭いアパートで生活していた。ほとんど、両親は朝から晩まで働いていて、私は0歳から保育園に預けられていた。

この歳になって、思うが、

「0歳から保育園に預けてんじゃねー。かわいそうじゃないか、私が。」

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当時は記憶がある3,4歳の時は、気が付けば保育園生活が当たりまえだったので、親と過ごす時間が少なくても、全く気にならなかった。
私が保育園から小学生になってからは、両親とも夜の9時まで外で働いていて、私も含めた子ども3人(小3、小1、保育園年少)だけで家にいることもしばしば。

「・・・チッ、こんな小さい子どもたちだけ残して、危ないとか思わないのか、両親は。どうなってんだ、この時の時代はっ!(と、今さらつっこむ。)」

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その分、兄妹と過ごす時間が多く、兄妹3人ともが仲良かった。

布団に兄妹3人並んで、うつぶせに寝て、パジャマ姿でおしりをフリフリして遊んだ。

よく夜は兄妹たちだけで「とんねるずのみなさんのおかげです」を見て、大笑いしたものだ。

その影響で

チェッカーズ”や”荻野目陽子さん”の歌を口ずさむ、小学一年生だった。
保毛尾田保毛男(ほもおだほもお)のモノマネをする小学一年生だった。

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毎週木曜日の夜9時が楽しみでしょうがなかった。
私のお笑いの原点は、「とんねるず」にある。

今にして思えば、この過ごした時間が兄妹との絆が培われていったのだと思う。

当時、共働きと言っても母は、家事や育児でなんだかんだ、家にいることはまだ父に比べてあった。

父は週に6日間は接骨院で働きながら、柔道整復師の学校に通っていたので、家にいたのは一週間で日曜日のみ。

その日曜日には、疲れ切った父はそのほとんどが、家で寝ていて平日の激務の疲労を癒していた。

父は、毎日夜中まで仕事と学校で疲れ切った体を日曜日に癒し、その生活サイクルをしていたのだ。

だから、父と一緒に過ごした時間や思い出はほとんどない。

父との少ない思い出で一番印象に残っているのは、父が公園でバク転を見せてくれたことくらいだ。

「バク転できる父親ってかっこいいよなぁ。そんなんできる父親ってレアでない?今、私が自分の子どもたちの前で挑戦したら、ただのひっくり返ったカエルになる(と、妄想してしまう。)」

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両親と過ごす時間が少なくても、兄妹と楽しく過ごしていたし、両親が喧嘩はほとんどしていないかったので、それなりに家庭の中で小さな幸せを感じ暮らしていたのだなと、振り返ってみてもそう思う。

・・・まさか、突然、この小さな幸せが崩れて、心落ち着かない日々が訪れるとは思ってもいなかった。

ある日、それはどこなく暗い声をした母から前触れもなく、告げられる。

「引っ越さなきゃいけなくなったから、二年生から違う学校に行くからね。」

私は、その時に

なぜ?

という疑問はわいてこなく、

「わかった」とだけ返事したと思う。

(それは、家族みんなで住む場所を変えて、新しい生活のためにどこかに引っ越すという理解だったからだ。)

肝心な

「パパとはもう会えなくなり、この家を出ていかなければいけない」

という理由が、そのときは母から聞かされなかったからだ。

小学校1年生の終わりが近づくにつれ、母の悲しい姿を見ることが徐々に増えていった。父が家に帰ってくる日が少なくなっていった。

ある日、遊びから帰ってきた私は母が泣きながら荷造りをしているのを見た。父と母のツーショットの写真、家族写真を涙を流しながらハサミで切っている。よく見ると写真の中の父の写っている箇所だけ、切り抜いているのがわかった。

私は

「大丈夫?」

と背中から母に声をかけた。

ただただ、泣いている母は、私の問いかけに

「大丈夫」と返事をすることはなかった。

母にとって、とても悲しい出来事があるのだということを、その背中が物語っていた。

と、同時にこの引っ越しが、ただの引っ越しではないこと、父と母がもう後戻りできない状況になっているのだと、幼い私は悟った。

ただただ、母のすすり泣く声と、チョキチョキとハサミで写真を切る音だけがしばらく続いた。

こうして、小学校1年生の終わりに、突然、山川家(仮名)の家庭の崩壊が訪れたのだ。

当時、1991年1月~3月までフジテレビで放送されていたドラマ「東京ラブストーリー」主題歌は小田和正さんの「ラブ・ストーリーは突然に」。このドラマの結末は、ヒロインと結ばれることがなく終わったドラマ。王道のハッピーエンドではないこのドラマの結末には、私は当時衝撃を受けた。

未だに母のすすり泣く声と、チョキチョキとハサミで写真を切る情景を思い出すたび、小田和正さんの「ラブ・ストーリーは突然に」のメロディーがリンクして、私の中で流れてきます。

数日後、引っ越し前に、母から子どもたちへある男性を紹介された。

「この人は、はる(仮名)っていう人、宜しくね。」

鼻の下にひげを生やした30歳前後の男性。

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当時、大人の事情を知らない私にとっては、それが新しい母の恋人だということの理解もないまま、ただうなずく。

すでに当時の母の年齢をとっくに超えた、今の私からしてみれば

「子どもたちを振り回して早速、新しい男作ってんじゃねーよ!恋愛依存症か!」

とも、罵ってやりたいところだが、それ以上に母は苦労をしたのでそれは、心の中にしまっておこう。

「よろしく!」

と、

ぱっと見、はる(仮名)の笑みと一緒に浮き出る両頬のえくぼが、人良さそうな印象にも思わせた。

この、はる(仮名)という男が、のちのち、とんでもない行動や人格だということは、私たちはこのときはまだ知る由もなかった…。

To Be Continue…








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