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マルチ人。の絶叫伝記 ~小学生編 ② 悲しみの先のいびつな関係~

「★〇×△●~(泣き声)」

(・・・りょうくん?)

「お父さん、帰ってきてよぉ(泣き声)」

半分寝ぼけていた、私(マルチ人。)はその電話での話し声に気が付く。

電話で話して泣いているのは、2つ上の兄のりょう(仮名)

「お父さん、早く帰ってきてよ、嫌だよ(泣き声)」

どうやら、電話の相手は父のたかし(仮名)のようだ。
父たかしは、間もなく私が小学1年生が終わろうとしている2月には全く家に帰ってこない日が続いていた。母は毎日ように泣いていた。当時その理由は私は明確に知る由もなかったが、その電話のやりとりを察知した私は、一瞬で極まった悲しみが胸に押し寄せてくるのを感じた。

「たかくん、たかくん、今どこにいるの?」

続いて、母も叫び泣く。

「嫌だよ、お父さんと一緒に暮らしたいよぉ、早く帰ってきてよぉ」

兄のりょうが電話越しの父に、泣いて訴える。
そのようなやりとりが数分は続いただろう。気が付けば私も

「お父さん、早く帰ってきてよぉ」

と泣きながら、電話越しに訴えていた。電話越しの父のたかしも泣いていたようだ。母と子どもたちの訴えは虚しく、父からの最後の別れの電話が終わった。

あっけなく終わった…。

「チッ。妻と子どもたちの涙の懇願を振り切るなんて、どんだけ超合金の意志を貫く、おやじだったんだよ。一体何があったのさ!(と、つっこませて下さい。)」

この離婚劇の発端の明確な原因は、その30年後に私は知ることとなる。

現在、私(マルチ人。)にも、妻と4人の子どもがいるが、

「自分の子どもたちが、この離婚した時期の小学1年生を超えるまで、離婚なく不自由なく育てる」

というのが、子育ての第1目標と定めている。

そうすることで、自分の辛い過去に打ち勝てるような気がして…。

そうすることで、少ししか過ごせなかった父たかしに対して、自分がたかし以上に立派な父親になったと証明できる気がして…。

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”くりぃむしちゅー”の”上田晋也さん”バリに頭の切り替えが早く、

”元ZOZO TOWN”の"前澤友作さん"バリに行動力ある母は、

「この人は、はる(仮名)っていう人、宜しくね。」

と、その数日後に子どもたちに、鼻の下にひげを生やした30歳前後の男性を紹介してきたのだ。

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当時の母の新しい恋人、という大人の事情を理解していない、私も含めた子どもたちは、それを初めは抵抗なく受け入れた。

悲しみに打ちひしがれる暇がないように、

そして、

心の隙間を早く埋めたいかのように、

母は”暴走モード"に突入し、"はる(仮名)”との時間を過ごすようになっていった。

まさに、私たち家族の絶叫人生の序章となる。

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1991年4月。東京都、練馬区。
引っ越し先で新しい生活をしている。
離婚したということをはっきり母から聞いていない私は、引っ越し先のマンションの3階のベランダから10分以上、外を眺めている。

いつ父が私たちを迎えに来るのだろうか。
いつ以前のように再び一緒に住む生活に戻るのだろうか。

という想いが頭の中にあり、マンションの3階のベランダから私は毎日、父の姿を探していたのだ。

決して迎えに来ることなどない父の姿を、ただ純粋に探していた。

当時、母から

「もう父と一緒に暮らすことはない」

と、聞かされていなかった。

・・・いや、聞かされていたのかも知れないが、私がそれを拒絶して受け入れていなかった、もしくは記憶から消し去ってしまっていたのだ。

(はあ、今日もお父さんはこなかったか…)

と、憂鬱な気持ちのまま、外を探すのを止める。

引っ越し先のマンションの新しい生活の中には、まだ慣れない存在がいる。

母の新しい恋人の”はる(仮名)”はるの子どもの”ひろや(仮名)”だ。
(サラッと紹介したが、なんと、はるはバツイチで、前の奥さんとの子どもがいたのだ。)

はると母が同居する際に、ひろや(仮名)を引き取って、一緒に住むことになったのだ。
ひろや(仮名)は、小学5年生。パッと見は、お調子者な手長猿、という印象だ。人当たりはよく、明るい性格の部類に入る少年だ。

・・・まだ、この時は…。

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こちらはまだ、父との別れに、心が追いついてない上に、引っ越しやら、転校やら、未知なるクリーチャーとの同居やらで、まぁ、見事に振り回された新生活。

いつだって、大人の都合で振り回されるのは子どもだ。

「大変よく暴走できました。」

と、母に皮肉の一つでも言ってやりたいものだ。
(が、この10年後に、私自身がバイクで暴走行為をするので、僕、母への皮肉は控えることにする。)

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当時、私たち家族は、母、小学生4年生の兄りょう、小学2年生の私、保育園年中の妹の4人だった。

苗字は変わらず、”山川(やまかわ)(仮名)”の姓を名乗って生活していた。

一方のはる、小学5年生のひろやは、”金田(かなだ)(仮名)”という苗字だった。

山川(やまかわ)家と金田(かなだ)家との苗字が異なる二家族、バツイチ連れ子同士のいびつな同居生活が始まる。

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同居生活するようになって数ヶ月でその違和感や異変を覚える。

転校先の学校に行くようになって、新しい友達もできた。

時間が経つと、家が同じ方向になる友達と一緒に登下校する日が当然、増える。

家に友達を招く時もある。

ある日、学校の友達から

「なんで、彼(ひろや)と一緒に住んでるの?どういう関係?」

と友達から当然の質問。純粋な疑問。

都度、回答に詰まる私。

家族でもない、苗字も違う、顔が似てもいない。

「親戚みたいなもの。」

と適当に返事。

いつの日か、

(頼むから、俺に興味を持つんじゃねぇ。)

とさえ思うようになっていた。

友人にこのいびつな家庭環境を説明するのが、私は面倒くさかったのだ。

当時はまだ、離婚した家庭や片親の家庭がマイノリティーな時代だった。

当時のその際立って異質な家庭環境に、小学校の友人たちの視線と注目と興味が、私に向けられていたことを、私のスカウターはしっかり察知していた。

この歳くらいからだろうか。周りの人の目を気にするようになったのは。

生活の違和感は続く。

いびつな関係の生活から、さらに数ヶ月後、いくつかのある出来事が起こる。この出来事によって、私は初めて憎いという感情を抱いたであろう。私たち山川家にとって、トラウマとも思えるとんでもない光景を目の当たりにすることとなる…。

To Be Continue…

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