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【シリーズ】街角をゆく Vol.12 泉佐野 (大阪府泉佐野市)

こんにちは。エネルギー・文化研究所の山納洋(やまのう・ひろし)です。
僕は2014年から「Walkin'About」という、参加者の方々に自由にまちを歩いていただき、その後に見聞を共有するまちあるき企画を続けてきました。
その目的は「まちのリサーチ」です。そこがどういう街なのか、どんな歴史があり、今はどんな状態で、これからどうなりそうかを、まちを歩きながら、まちの人に話を聞きながら探っています。
この連載ではWalkin'Aboutを通じて見えてきた、関西のさまざまな地域のストーリーを紹介しつつ、地域の魅力を活かしたまちのデザインについて考えていきます。
 
今回ご紹介するのは、泉佐野。南海本線泉佐野駅の周辺です。
 
泉佐野市域には中世になると佐野荘、鶴原荘、長滝荘といった荘園が成立し、1234年(天福2年/文暦元年)には九条家によって広大な日根荘が成立しました。佐野村では室町時代から、熊野街道筋の字市場村に定期市が立つようになりました。一方、沿岸部には対馬や五島列島方面まで漁に出るほどの大規模な船団が出現し、玉之浦納の反乱や文禄・慶長の役にも佐野村の漁民が登場します。
江戸時代には豪農の中から廻船業を営む者が現れるようになりました。なかでも食野家(めしのけ)、唐金家(からかねけ)は大名貸や御用金などの金融業も行い、巨財を築きました。両家は井原西鶴の「日本永代蔵」にも登場しています。「佐野浦」と呼ばれる港町として活況を呈した佐野村は、和泉国では堺に次ぐ商業都市となり、人口も岸和田城下6町や貝塚寺内5町を上回るようになりました。
 
本町にはかつては食野家が所有し、諸国の物産が収められていた倉庫群「いろは四十八蔵」の一部が今も残っています。近くには蔵に荷を運ぶ人たちの船待ち場があったそうで、彼らの力だめし、鍛錬、娯楽のための「力石」が民家の前に置かれていました。

今も残されている「いろは四十八蔵」の一部


民家の前に残されている力石。「龍虎」「雲龍」の文字が見える。

食野家はその後、幕末に廻船業が振るわなくなり、明治の廃藩置県で大名貸しの金が貸し倒れとなったことで、一気に没落してしまいました。屋敷跡は佐野村に買収され、現在の泉佐野市立第一小学校となっています。同小学校には食野宅にあった松の木と井戸枠、石碑が残されています。

泉佐野市立第一小学校の正門前に残されている「食野宅跡」の石碑

泉佐野では、江戸初期から木綿の栽培が盛んに行われていました。特に海岸地帯では稲作に匹敵する栽培面積に達していました。この地には大きな河川がなく、大量の水を必要とする稲作よりも綿作の方が営みやすかったこと、佐野村に廻船業が発達し、全国から干鰯を集められたことが背景にありました。江戸末期には綿の栽培とともに、手ぬぐい、ゆかたなどに使われる白木綿の産地として、江戸にも知られるようになりました。

1885年(明治18年)に大阪の舶来雑貨商・新井末吉がドイツ製タオルを入手し、泉佐野の白木綿業者、里井圓治郎にその製法の研究を奨めました。里井は1887年(明治20年)にパイルをつくる打出機を考案し、タオル製織に成功しました。その後木綿の仲買商や織元、農家は泉佐野にタオル工場を興しています。つまり、機械製織というイノベーションが起きたことで、この地の織物産業は生き長らえたのです。戦後には浴用タオルの生産が広がり、泉州地域では最大694社(1983年)の織屋が操業していました。ですがその後、中国・台湾産タオルの輸入が急増したことから、国内での生産は低迷。大阪タオル工業組合の会員数は、2019年で83社となっています。
泉州のタオルは「後晒し」といって、タオルが織り上がった後に洗いをかけています。そのことで吸水性の高い、ふんわりとしたタオルに仕上がるのが特徴です。その特徴を生かして、近年では「泉州タオル」としてブランド化を図っています。

泉佐野駅近くで見かけた、ノコギリ屋根のタオル工場

泉佐野はまた、たまねぎの産地としても知られていました。1883年(明治16年)頃に泉南地方を干害が襲った時に地域に導入され、菜種に代わる稲の裏作として明治中期以降に急成長し、全国一の生産高を誇るまでになりました。昭和の初めには南海鉄道や阪和電気鉄道にはたまねぎ専用の電車が走り、天王寺経由で全国に運搬されていたそうです。最盛期の1960年(昭和35年)には4千ヘクタールを越えるまでになりましたが、その後淡路島をはじめとした他県産地の急成長により、かつてのような地位を占めることはなくなっています。

射手矢農園の泉州たまねぎ「長左エ門」

JR阪和線日根野駅の西にある「射手矢農園」では、27ヘクタールもの農地を使い、米・キャベツ・タマネギの3種類を2年5毛作で回すローテーション栽培をされています。
泉佐野でキャベツの栽培が盛んになったのは昭和30年代。昭和50年代には糖度の高い「松波キャベツ」が導入されました。これは冬にできるいわゆる寒玉キャベツで、寒さから身を守るために糖度を高めると言われ、甘いものでは糖度10度以上になることもあるそうです。
 
水なすもまた地域の特産として広く栽培されています。皮が薄く、絞ると水分がしたたるほどみずみずしく、アクがほとんどないため生で食べることもできます。泉佐野市や貝塚市の土壌や気候に適応したもので、昔は地産地消の野菜でしたが、近年は海岸部を中心に広く栽培され、新たな泉佐野の名産品となりつつあります。

泉佐野の水なす畑

野菜や果樹の産地はかつて、消費地である大都市近郊に存在していましたが、高速道路網の整備、低温倉庫やトラック向けの冷凍システムの普及などにより立地の制約が緩くなり、さらにビニールハウスを用いた加温栽培を行うことで、低コストで野菜や果樹を量産する地方産地が台頭してきました。
そのため大都市近郊の産地では、直売や体験農園などへのビジネスモデルの転換や、生産物のブランディングに取り組んでいます。射手矢農園の「長左エ門」や「松波キャベツ」もそうです。泉佐野市では、地元産のたまねぎやキャベツ、水なすのブランドをPRするため、泉佐野産(もん)普及促進事業を行っています。
 
また泉佐野の漁港には「泉佐野漁協青空市場」があります。もともとは卸売市場の仲介業者や漁師が近くの路上で競りの直後に魚介類の販売を行っていたのですが、平成8年に屋内施設がオープンし、30程の鮮魚店が軒を並べ、週末には他府県からの来客で賑わっています。朝、出漁した船はお昼の2時頃に多くの魚介類を積んで、港に帰ってきます。そしてセリが開かれ、仲買人によって競り落とされたシャコ・ガッチョ・ワタリガニなどの魚介類が店舗に並べられます。魚介類の販売の他、レストランやお寿司屋もあり、活きの良い新鮮な魚をその場で味わうことも出来ます。

泉佐野漁協青空市場

※【シリーズ】街角をゆくは、不定期で連載いたします。

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