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徳島密航記1999(1)

※この記事は、1999年3月に、当時大学生だった筆者が、大阪から徳島へプロレス観戦に出かけた際に記したルポです。掲載に至ったいきさつは下記のリンク先の記事をご参照下さい。

 7時30分、八坂駅桜橋口着。バスの中で食べようと、 キオスクでチップスターと烏龍茶を購入。ウォークマンで飽きずにたまを聞き続けながら、しばし待つ。あー、いよいよ行くんだなあとだんだんふくらんでくる旅の高揚感をうれしく感じていたのだが、ちょっと気を抜くと、一瞬にしてテンションが下がっていく。どうも浮き沈みが激しくて朝から大変なのだが、理由ははっきりしていた。チケットをまだ手に入れていないのだ。ローソンチケットで関西でも前売券が発売されているのは知っていた。ただ、2階の自由席だけとのことで、もう少し良い席はないものかと、当日券を当たってみることにしたのだ。最悪、ダフ屋から買う、という手もあるのだが、なるべく使いたくないのは皆同じである。きちんと問い合わせなかった私がいけないのだが、いつ、どこで当日券が売られるのか、全く知らないまま、いきなり現地に行ってしまおうとしていたのである。そりゃ不安にもなるわ。しかしそこで、まあ何とかなるだろうと急に楽天家になってしまう私。 そのノリのまま、鞄ひとつ下げた恰好で四国まで行くというのだから、親が心配したのは言うまでもない。一人旅なんて初めてだし、行ったことのある最西端は山口県で最北端は福島県、未だ本州をろくに出たこともないのである。そんな極めて局地的な行動半径しか持たない私が、何故海を渡る気になったのか、答えは簡単だ。どうしても見たいプロレスの試合があったのである。
 
新崎人生(みちのくプロレス)VSアレクサンダー大塚 (格闘探偵団バトラーツ)
 
 …話は週刊プロレス2月2日号にさかのぼる。2月2日号といっても、本当は1月の21日に枚方市駅前のファミリーマートで買った筈なのだが、それはさておき、こ の号は、なぜか至る所に新崎人生が出没する、 人生好きの私にとってはかなり幸せな一冊であった。でも、その1週間に彼の身に起こった出来事の大半は、とても喜んでなどいられない事ばかりが並んでいた。みちプロ1.13後楽園ホールではスペル・デルフィンが離脱を表明、そこにSASUKE (当時)がデルフィンの選手引き抜き疑惑を糾弾したりなんかして観客は騒然、本当なら喋らないキャラクターな筈の人生が説得に当たってお客さんは静まったものの、結局1.17のデルフィン退団会見では全部で7人もの離脱者が出て……その記者会見の前日、全日本1.16後楽園 (何か 鬼門でもあるのか、この会場は?)では、人生はハヤブサ (FMW)と組んでアジアタッグのベルトに挑戦するもヘッドバットの応酬で大流血、このタイトル戦史上に残る名勝負とまで言われたが、結局ベルトには手が届かなかった。 そんな中に、バトラーツ1.12後楽園 (おい、またか!) の記事があったのだ。
 アレクサンダー大塚の名は、10.11 東京ドーム 「PRIDE-4」 のマルコ・ファス戦の記事で知った。格闘探偵団バトラーツ」という団体名の方は辛うじて知っていたが、「何で探偵なんやろ……変な名前」 くらいにしか思っていなかった。 マルコ・ファスにしたって、ヒクソン・グレイシーが避けて通る男、という肩書がなければその存在がどういうものなのか、分からなかったのだ。それがいきなり週プロの表紙になっているのだ。 私は高田vsヒクソンの結果が知りたいのに。 このスキンヘッドのおっさんは何者なんだ? 当然のように野次馬の血が騒いだ私は、目当てだったはずの記事を読み飛ばし (結果さえ分かればよかった、という理由もある)、そこで初めてこのスキンヘッドのおっさんの正体を知ることになる。 下馬評では全く期待されていなかった男が勝つ、というシチュエーションや、格闘技寄りのマスコミ陣に対する人を食ったような物言いが、サクセスストーリー好きの私のツボに見事にはまってしまった。 おまけに、入場の時に着ていたあのTシャツ…解説しよう。 大きな会場での試合だと、大抵入場ゲートとリングの間には距離があり、そこには立派な花道が伸びている。そして選手は、自分のテーマ曲が流れると、大観衆が見守る中、ライトアップされた花道を厳しい顔をしてリングに向かって歩いてくるわけだ。 新日本プロレスのビデオなんかを見ていると、思わず硬直して真剣に見つめている自分がいたりする、選手としても非常にかっこいい瞬間である。しかし、このおっさんの場合、厳しい顔をして歩いてくるのは一緒なのだが、その胸には、黒地に白で、しかもなぜか丁寧な字体で、

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と…このシュールさを文字で表せない自分の才能のなさを真剣に恨みたくなるほどの衝撃であった。それ以来、毎週木曜日になると、他のメジャーな選手の記事を読んだあとに、この変な名前の団体の試合と、そこに所属する変な名前のスキンヘッドを探すのを小さな楽しみにするようになったのだ。
 
 話は前後してしまったが、1.12後楽園である。 その記事に付けられたタイトルは 「21世紀のバチバチ」。タッグマッチではあったが、アレクサンダー大塚と、同期のモハメド・ヨネの新世代対決が大きくクローズアップされた内容の記事だった。そこまではいつもどおり 「ヘー、ヨネって何か面白そうだなー、でも相変わらずアレクって変なコスチュームだよなあ」 などといまいちピントのずれた感想を持ちながら読んでいたのだが、何も考えずめくった次のページに、いきなり釘付けになった。
 
【試合後、マイクを取った大塚。そこで話し始めたことは、これまで彼が自分の中で大事に大事に育んできた想いだった。
『どうしてもやりたい相手がいて、この世界に入ってきました。今のボクなら、その人の名前を明かしても…言うべき時がきたんだと思います。……みちのくプロレスの新崎人生さん。 ボクは、 貴方の姿を見てこの世界にきました…』
 言葉を続けていくうちに感極まり泣き出す大塚。2人が同じ徳島出身ということ は知られているが、 高校の先輩後輩という事実は、広く公にされていなかった。
 プロとしての、すべての実績はこの日のための階段だった。アレクがどんな思いでこの瞬間を迎えたか、想像を絶するものがある。
『今、ここまできたボクではダメでしょうか? ボクは貴方の背中を見てこの世界に入ってきました。こんなボクでよかったら、ぜひ貴方と闘いたいです』
 あとの言葉が出ない大塚に代わり、 石川 (注※石川雄規選手。 この日、アレクとタッグを組んでいた)が観戦していた人生を呼び入れた。そして2人だけの会話が続けられた。 その内容に関しては明らかにされなかったが、アレクの気持ちは十分すぎるほどに伝わったのは間違いない。近い将来、大塚の希望は叶い、人知れずアレクを見守り続けてきた人生の運命と交わる。 重ねてきた歳月が、その夢の重み――。】
(【  】内は「週刊プロレス」1999年897号より抜粋。以下同様)
 
 大きく載せられた、リング上で俯いて目を閉じているアレクと、それをじっと見つめて何か話しかけている人生の写真。 何でこの1ページの記事にこれほどの臨場感が 溢れていたのか、何にそんなにも打たれてしまったのか、思わず写真の中のアレクにもらい泣きしてしまった。 いくらこういう感動の場面に弱い体質だといっても、写真に泣かされるなんて…。 しかし、はっきりと対戦が決まったわけではないのだ。私も、 早くその日が来るといいのにね、くらいにしか思っていなかった。それが、1週間後の「みちのくプロレス3.6徳島市立体育館/新崎人生vs A.大塚」の記事で、状況は一変する。曰く、
 
【かくして、大類は成就する。メジャーに所属しない選手同士の一騎討ちとしては、 20世紀最後のビッグなカードであり、同時に21世紀を代表する2人の顔合わせでもある。
(中略)この試合は、後輩が先輩に挑戦するという見方は成り立たない。なぜならば新崎にとっても、大塚と闘うことは彼が自分を追いかけてプロ入りした時からの夢だったからだ。
 徳島発21世紀行きの夢。それに同行したい者は3月6日、第八十八番札所へ集いたまえ――。】
 
 ここまで書かれたからには、もう素直に集うしかないではないか。これを見なければ一生後悔するかもしれない、とまで思い込み、一緒に行ってくれる人もいないので、それなら一人でも行く! いっぺん一人旅やってみたかったし、何が何でも行く! と恐怖の思い込み女と化した私は、そのまま約1カ月の間、プロレスとは全く別の所で忙しかったにもかかわらずその訳の分からないパワーを持続させ、JR時刻表を駆使してバスの切符を取り宿泊先まで決め(それだったらチケットも取っとけよ、とつっこみたくもなるが…)、ついにその日を迎えてしまった、という訳なのである。

(2)へ続く

【24年後の筆者より】
何からツッコめば良いか分かりませんが、むしろツッコまない方がいいのかもしれません。とりあえず、熱量だけは感じます。

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