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荻原健司が会社をやめた本当のワケ

一年前

 およそ一年前のこと。私は当時所属していた会社に辞表を提出。会社員として各種の手続きを踏んで所属先を去った。その後、個人の保険や年金などの切り換え作業は守られていたものから放り出された恐さを感じたものだった。思えば、会社を辞める決意に至るまでに時間がかかった。組織運営について自分なりの考えや取り組みを説明してはみたが、結局、自分の行動は言い訳がましく情けなかった。 私には会社を辞める潔さがなかった。会社という保護下に置かれているうちに、完全に自分らしさがマヒしていた証拠だ。

指導者はいらない

 ラグビー指導者の名将エディー・ジョーンズ氏はかつてのインタビューで「私の将来の目標は、指導者という仕事をなくすこと。」と言っていた。まったく同感である。本当の、本物のアスリートには指導者はいらない。自立した選手、自律できる選手の指導者は自分自身だからである。当時所属していたチームの選手たちはそんな選手ばかりだった。選手には常に主体性を持って行動して欲しいと思っていたし、選手自身に託すこことで強い責任感や使命感を持たせたいと考えていた。その結果として、14年ソチ、18年ピョンチャンの冬季五輪において、チームからメダリストを輩出することができた。すべて選手の頑張りによるものではあるが、指導者冥利に尽きた。その時こそ、指導者がいらない選手をつくる必要性を感じ、選手育成の出発点であるジュニア育成に気持ちが傾きはじめた。

与えられていることに気がつかない

 良い結果は、気を緩めると悪い結果を呼んでくるものだ。日頃、選手経験がある自分には油断など一切ないと思ってはいた。今は、それは選手をやっているうちの話だったと反省せねばならない。指導者となって、その立場に安住していたと思う。所属選手の五輪メダル獲得で、なおさら油断していた。五輪選手指導者、メダリスト輩出コーチという周囲から与えられた肩書きにかまけて、世界の情勢の変化や、他国の若手選手の台頭への注意深さが足りなかった。「与えられているうちは強くなれない。」と選手時代に胸に刻んでいた言葉を、自分自身がぬるま湯につかっているうちに忘れてしまっていた。

胸を脹れない自分

 五輪選手指導者としてメダリストを輩出したことは誇りではある。しかし、常に「私はスキー指導者です。」と大きく胸を張って言い切れない自分がいたことも確かだ。なぜか。それは、私にはジュニア選手育成の経験がまったくなかったから。もちろんこれまでジュニア選手への技術指導や講演、時には一緒にトレーニングした。しかし、どれもゲスト参加であり、単発もの。自分自身の手で長期にジュニア選手を育てる経験がなかった。ジュニア選手育成の経験がない者に五輪選手育成はできないと言っているわけではない。ジュニアの経験がなくとも、ト ップクラスの選手育成に定評のある指導者は世界中にいくらでもいる。ただ、 自分としては「ここ(ジュニア育成)なしでは自分の選手育成は語れない。」と考えた。私は常々、選手育成の原点は人間教育だと考えている。五輪選手に向き合えば向き合うほど、つくづくそう思う。極端なことを言わせてもらえば、五輪選手育成ほど楽なものはない。選手は誰もが自立している。とても自発的で、必要なトレーニングを計画的に実行する能力がある。 指導者に言われなくても、勝手に強くなっていく。逆に言えば、指導者に言われているようでは五輪選手にはなれないということ。

出発点をつくる

 少子化やスポーツの多様化。競技スキーに子どもたちが集まらないことへの言い訳として多く聞かれる言葉だ。確かにそうだ。北海道や東北、私が暮らす長野県でも雪の降る地域の子どもは少なく、その中でスキーに向かう子はごくわずか。現場では、スキーをやっている子の多くはお父さんやお母さんがスキー選手だった場合が多く、いわば二世ばかりだ。政府がどんな少子化対策を講じようが少子化には歯止めがきかない。仮に子どもの数が増加に転じたとしても、その子たちの関心がスキーに向かうか分からない。どうすればジュニア選手を増やせるのか。子どもたちはどこにいるのか。子どもたちは地域別に見れば、山間地域ではなく首都圏にいる。だから、そこから連れてくるしかないと思った。山間地域には熱心な指導者がいる。そこは彼らに任せて、私は都会へ目を向けようと考えた。そのためにも、まずはスキーの情報や魅力を伝える機会を提供する必要があった。SNSで発信し、東京都や埼玉県を含む、いわゆる都会の子どもたちにスキージャンプを体験したもらった。初めてジャンプする都会の子どもたち。恐る恐るジャンプ台に登り、その勇気を絞れるだけ絞って滑り降りてゆく。無事に着地して飛び終えた時に見せる清々しい表情と達成感あふれる笑顔は日常にない興奮を味わえた証だ。彼らは、機会あるごとに続けて参加してくれる。こうやって、都会に暮らしていたってジャンプができることを理解してもらい、また、ジャンプの輪を広げてもらいたい。もちろん、保護者の理解と支援は欠かせない。

こどもたちと向き合う荻原健司のジュニア育成の様子 ↓


本当のワケ

 自分に足りないもの。それは、ジュニア選手育成である。子どもたちと向き合いながら、彼らの心を理解しながら、つかみながら、人をつくっていきたい。自立(自律)した人はどうやったら育てられるのか。その試みを実行するためには、誰にも、何にも捕われない環境が必要だった。自分自身の考えでやってみる。トライとエラー。選手時代そうやってきたじゃないか、少しは反骨の精神もあったはずだ、それが自分らしさだったはずではなかったか。
当時所属していた会社には長い間本当にお世話になった。感謝してもしきれないほどだ。会社を辞めたことで「自分らしさとは。」を気づかせてもらった。誰にも似ていないことに誇りを持ちたいと思った。与えられた既成概念からはなにも手に入れられない。生き方を変えよう、行動を変えようと思った。だから、それまでの自分をやめた。






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