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宵闇亭奇譚 「葬送」

宵闇亭

宵闇亭は、現世と常世、その双方の祇媼町にある。
迷宮の如き社家町の最深にあり普通の人は辿り着けないが、時折、不意に生者死者が迷い込む。生と死、生者と死者、現の理と幽冥の幽玄、その狭間にあってそれら双方を繋ぐ生死の境が曖昧な場である。
池を囲む庭園は四季折々の美しさ。滝が流れ込み、その奥の杜には小さな祠があり、深い闇に呑まれる。
そこには留守居の男がおり、訪れる生者死者を繋ぐ。

(1)

 夜の暗いアスファルトに赤黒い染みが広がる。

 にゃあ にゃあ にゃあ にゃあ にゃあ

 黒い染みの真ん中にこんもりと黒い物体。ぐにゃりと捻れてぐったりとひしゃげて四肢を投げ出す小さな、生き物だった物。自身が粘つく赤のまとわるのも構わず、もう動かなくなった物の傍に寄り添い、ぺろぺろとその毛並みを舐めて癒そうとする親猫。

 にゃあ にゃあ にゃあ にゃあ にゃあ

 その鳴き声は、夜の道に消えることなく響いた。

(2)

 宵闇亭からあまり出歩くことのない私ではあるが、全く出ないと云うことでもない。無論、用があれば外にも出る。今日はとある咒者であるところの旧い知人に会いに、実に不本意ながら其奴の邸に行った帰りである。本来なら呼びつけるとは何事か言ってやりたいところだが、先日其れも不本意ながら作ってしまった借りがありそうもいかなかったのだ。

 夜は疾っくに更けていた。

 私はとぼとぼ歩いている。歩くのは嫌いではない。町の景観、夜空や町を囲む山並みなど景色を眺めながら歩く。帰り着くまでどのくらい掛かるかは分からない。どうせ時間の制約などない。ぼちぼちと歩いていればその内着くだろう。

 そんな考えが誤りだったのだ。

 にゃあ にゃあ にゃあ にゃあ にゃあ

 どこぞの祇社じんじゃの裏手に当たる道。外灯はまばらで、闇の中に白い染みのように潰れた円を映す。本殿背後の小さな杜と面する辺りは丁度外灯の隙間になって暗かった。そこから聞こえる、鳴き声は、どう聞いても悲愴で、胸を抉るような悲しみと怨みに充ちていた。

(3)

 正直言えば真っ直ぐ何事もなく帰り着きたかった。面倒事なぞそもそ も御免。今日も散々物臭だのなんだの言われてきた。そんなだから出来れば回れ右して道を変えたい。迂回しても然程距離は変わるまい。そう思いながら、結局は真っ直ぐ進む。流石にあの声を聞けば、心の疚しさに抗えるものではない。

(4)

 後悔した。

 猫は身近な動物である。祇媼町には猫が多い。社家町にも多く、宵闇亭にもちょくちょく、いやほぼ常に数匹の猫が邸の敷地のどこかにはいる。何度も通ってくれば馴染みにもなり、懐いてくれば餌ぐらいはやる。弱っているのを獣医に診せたこともあれば、死んでしまったのを埋葬してやったこともある。だがやはり、斯う云うのは慣れない。車に轢かれてしまったのだろう息のない子猫の傍で、親猫が鳴いている。必死に傷を癒そうと子猫の身体を舐めながら。

 私は親猫に傍寄り問い掛ける。

「宵闇亭留守居として、望みを聞こう」

(5)

 隣市の湖は本邦のでも有数の広さを誇り、季節になると遊興目的の人出に賑わう。その家族も、忙しい父親が無理に無理を重ねどうにかもぎ取った休日を利用してやって来た。若い夫婦と幼い子供。小学校に上がるかどうかくらいの男の子だった。

 子供は元気に水に入ってはしゃいでる。それを見守る母親。父親は連日の激務の翌日、車を運転してここまで来た。疲労困憊でぐったりしていた。缶ビールを開けほっとした加減でうとうとしてしまったとして誰に責められようか。妻が優しく子供は任せてと言う。それですっかり安心して……

(6)

 にゃあ にゃあ にゃあ にゃあ にゃあ

 猫の鳴き声を聞いた気がして目が覚めた。猫? 湖畔に猫? いていけないことはないが、見た記憶がない。今日ばかりではなく、今迄数度来た中でも猫の姿を見たことがない。

 にゃあ にゃあ にゃあ にゃあ にゃあ

 随分と悲しげに聞こえる声だった。深い悲しみ、そして怨嗟。まるで、子を失った親のような……

 そしてはっとする。

 昨夜、会社からの帰り。深夜と言って良い時間。何かを踏んだ。いや、轢いた。人ではない。それは間違いない。動物、それも小さなイタチか、あるいは……猫。

 気が付けば頭上に一匹の猫。持ってきたビーチテーブルに座り、牙を剥いて睨み付けている。その怨み籠もった形相に怯み、思わず声を挙げる。まさかと云う思い。あの時の……、いや、その親か。

 ぬぅあ”ぁうぉぉ

 その声は、悲しい上に哀しく、心を打ち、震え、魂を揺さぶる、その怨嗟に充ち満ち充ちた、その声は彼の心に絶望となって押し寄せた。親としての彼の、子を思う気持ち。共鳴する。共鳴するが、相容れない。仇。自分殺した。そして見捨てた。見殺しにした。

 押し寄せた絶望はしかし、別の形でさらに身につまされることになる。ざざざ……と遠くに鳴る音。段々近付いてくる。ざざざ、ざざざ……、それから轟々とうねる唸りを挙げて、水が、大量の水が迫る。

「そんな……」

 波。それも巨大な、波。まさか、海じゃあるまいし。彼は目の前の情景が信じられず、茫然とする。

 なぁお なぁお なぁお なぁお なぁお なぁお

 猫が鳴く。まるで波を呼ぶように。復讐を遂げよと命じるように。猫が鳴く。絶望を叫ぶ。押し寄せるのは、正に圧倒的な絶望だった。

 一瞬

 ほんの僅か間のこと。強大な顎が凶悪な牙を剥きだし、全てを呑み込んだ。子も、妻も。残されたのは彼一人。椅子から転げ落ち、膝を突いて慟哭する。

「どうして、どうして」

 猫が鳴いている。

 なぁお なぁお なぁお なぁお なぁお なぁお

 彼は意識が遠退くのを感じていた。このまま死んでしまいたい――そう思った。その暗い微睡みの淵、声が

「アナタ、アナタ」

 妻の声だった。彼は飛び起きる。

「大丈夫? うなされてたわよ」

 心配げな妻の顔。その隣には我が子の顔もある。

「夢だったのか」

 彼は、彼にとっての大事な家族を抱きしめ、

「済まなかった、済まなかった」と繰り返した。

(7)

 宵闇亭の庭園の奥、どこまで続くかも分からないような深い深い杜がある。踏み締められた小径を反れると、ぽっかりと樹々が遮らない小さな空白地がある。そこに並べられた石。それらは皆、葬られた猫の墓。

 最も真新しい墓標の傍には、寂しげに佇む一匹の猫。別れを惜しむかに、長くそこから離れようとしない。そこへ一匹、また一匹と宵闇亭に馴染みの猫達が集まる。まるで子を亡くした猫の悲しみを共にするかのように。

 猫達の葬送は、夜を明かして続けられた。

FIN


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