なぜ自分の頭で考えることが大事なのか?
この世は、ままならぬものである。
思い通りにいくことは、少ない。
思ってもみなかったことは、起きる。
そういうものなのである。
しかし、だからと言って、全てを「仕方ない」と割り切ることができるものであろうか?
そのような割り切りを持った人間を、個人的には「強い人」だ、とも思うのであるが、ときとして、陥りがちなことがある。何故なら・・
人間とは、弱いものだ。
できれば、辛いことはしたくない。そして、
できれば、いいことがあればいいなと願う。
何もしないでいいことがあれば、最高である。
そういうものなのである。
一寸先は何が起こるか分からない、というこの世の不確実性が盛んに喧伝されている現代において、陥りがちなのが、「何があるか分からないから、何もしない」という考えのように感じている。
何もしない、というのは、何も考えない、ということである。
考えない、のは楽である。目の前で何が起きるか見ているだけ、なのは楽である。無責任こそ最高。更に、それに愚痴でもこぼせれば、そして同じように思考停止の仲間と愚痴を傷を舐め合えれば、心地よいことこの上ない。
「チャンスがなかったので」
どう考えても思考停止している人から実際に出てきた言葉だ。
そういう人にチャンスを与えるわけがないのだ。しかし、彼または彼女は、思考停止しているので、それさえも分からないのだ。そして、自分を擁護する。そう、悪いのは、自分ではないと。
なんでも最初に何かするのは怖い。
みんな見ている。恥ずかしい。
マスクをして、電車でうつむいているのが心地よい。
それも分かる。しかし例えば仮に、電車で自分の車両で、異常者が突然現れたら、すべきことをできるだろうか?正しい(というものなどないので、自分的に正しい、という意味で)判断はできるだろうか?
日常生きる中で、このような脅威に晒されていながら、マスクをしてうつむいてやり過ごすようなことをしていないだろうか?電車の中の異常者ならさすがに分かるだろうが、残念ながら現代は複雑化している。
脅威は、そんな目に見える形では現れない。
だから、敢えて言う。チャンスは、常にある。
目の前で起こること一つ一つに向き合い、考える。
自分としてどうありたいか、何をすべきか。
これをしていると、考える力が磨かれる。
勿論、それでも、起こることは予測できない。
しかし、未来というものは、学校のテストではない。正解もない。点数もない。そこにあるのは、いかに自分らしく存在できたか、自分らしいことを為したか、ということだけである。
勿論、面倒だから、考えない方が楽だ。
この世に生まれた特権だから、美味しいものを食べて、楽しく日々を過ごして、消費することに身を費やすこともできる。例えば、好きなだけ食べて、ベッドから動けなくなる人もいる。
人それぞれだけど、私は多分、それでは楽しくない。
楽しくなりたいなら、考えるべきだ、と思うのだ。
最初の一歩は辛い。だけど走っているうちに、その自由さに気づき、楽しくなるのだ。これは、実際に走ってみた人でないと実感することはできない。考えることも同じだ、と思う。
考えない人が多いので、考える私は、楽ができて、楽しい。
みんなが考え始めると、私は楽ではなくなると思う。
でも、もっと楽しくなると思う。私も、みんなも。
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