嗚呼我が音楽遍歴

①洋楽への目覚めはよく考えりゃ80sであった

音楽を聴き始めたのは幼稚園の頃。テレビのない我が家では唯一許されていた娯楽であった。5つ歳の離れた兄が、更に歳が2つ上の従兄の弟(さらに彼には更に5つ歳の上の従兄の兄がいた。私からは12歳上ということになる)に影響されて聴いていた洋楽への早熟な出会いである。

A-haのTake On Meを聴く度にウキウキしていたのを覚えている。そして出たA-haのセカンド・アルバム。兄は「これは暗いんで売れていないんだけど」と言ったけど、私は好きだった。カセットで何度も聴いた。最初2曲目やCry Wolfが耳を捉えたけどB面が好きだったのを覚えている。やはり明るくはないんだけど、心を締め付けるような、切ないメロディと雰囲気(音作り)への追求はここから始まったのかも知れない。

さて、その他Asiaも同様に、ファーストで好きになったけど、セカンドで人気に陰りが出て、サードは「本当に売れていないらしい」と兄から聞いた。この兄の情報が、音楽雑誌を読むこともなかった当時の私の唯一の業界情報だった。でもサードアルバムも好きだった。

GenesisもYesも好きだったんだけど、Asiaも含むこのバンドたちがプログレと言われる難解な音楽性のバンドが80sにポップ化をした姿だということを後に知って仰天したものだ。でも、今でも、この頃のGenesisが一番好きだ。アメリカで、叔母さんの車に乗ってニューヨークからロングアイランドに帰る橋の上で夕陽が落ちていく中でラジオからかかったこの曲のあの瞬間は忘れられない。

というわけで、よく考えると思いっきり80s少年だったわけだ。1978年生まれの私は、80s半ばの音楽を、未だに愛してやまない。それは、娯楽がほかになかった私にとって、心をときめかせることができる唯一のものだった。音が弾けて、リズムが体を震わす。その先に、かっこいい未来が見えた。

②プリンスの教えてくれた快楽

80sの終わりと共に私の小学校生活も終わった。1991年に中学に入った。何気なく受けた私立の学校に受かったので、予期せず大宮(埼玉)から東京(西日暮里)の私立の中学校に通うことになったのだ。

学校からの帰り道に、大宮そごうのCDショップに立ち寄って、ふと手にしたジャケット。そのジャケットは、見たことがあった。従兄も、兄も、買ったことがなかったが、その男を「変態」と呼んでいた。実はずっと、気になっていたのだ。

元々は近所のレンタルレコードで兄がレコードを借りてきて、カセットにダビングする。それを聴く、という流れであった。CDは当時高かった。当時我が家にはA-haのCDくらいしかなかったように思う。CDの盤面を傷つけるとエライ怒られた。だから、カセットを聴いた。

兄が借りてきたことがあったのか定かではないが、そのレコード、「パープル・レイン」には見覚えがあった。変態なのに、爆発的な売上だと言う。聞けば、禁断の音楽だと言う。当然、気になっていた。

中学生になって通学やお昼ご飯代もあり、多少のお小遣いをもらえるようになった私は、その「パープル・レイン」を買った。恐らく、自分のお金で買った最初のアルバムであっただろう。そのアルバムは、とにかく素晴らしかった。

何度も何度も聴いた。中学生の私は周りの人間に、その素晴らしさを薦めまくったが、言えば言うほど引かれた。運も悪かった。中学校の校庭にポツンとあった謎の離れの小屋には、「ラブセクシー」というアルバムのLPが魔除けに飾ってあった。気持ち悪いものの象徴だったのだ。

プリンスのアルバムを1枚1枚集めていった。パープル・レインほどの即効性はなかったけれど、どのアルバムにも1曲はキラー・トラックが入っていて、何度も何度も聴いた。もう引き返しのできないポイントに達していた。

当時の私に「プリンスのどの曲を聴けばいいか?」と聞いたら、「リトル・レッド・コルベット」と答えたであろう。ここには、妖しさと、爽快さと、グルーヴがあった。聴けば憂さが発散されるようだった。

③ネオアコと共にあった青春

私の青春はどこにあったのかは分からないけど、高校生の私は、とにかく中古盤屋さんを回る生活をしていた。秋葉原のあの店、ディスクなんとか(ユニオンも行っていたがユニオンではない)よく行ったなあ。

「変態なほど良い」という変な観念を得た私はマニアックなバンドを探しまくった。今でいうところのインディー・ポップ、というやつだ。で、好きになったPrefab Sproutは、なんだか青臭い音をしていた。青春が匂い立つような音。その青臭さに、病みつきになった。

Aztec Cameraも好きになった。どのアルバムも素晴らしかったが、坂本龍一さんがプロデュースしたDreamlandというアルバムは、特に聴いた。音が輝いていた。

というわけで今考えると完全にネオアコ少年だったわけだが、当時はネオアコという言葉も知らなかった。秋葉原のあの店で300円で売っていて安いので買ったHit ParadeのWith Love From…というアルバムも、今考えるとネオアコど真ん中だった。

そのマイナーバンドのアルバムは、どのアルバムも素晴らしかった。そして、ウキウキするような音楽だった。男子校で悶々としていた自分に、キラキラするような日々を夢想させてくれたのだ。

④浪人時代にハマったボサノヴァ

勉強もしなかった私は当然の如く浪人した。そして、塾には通っていたが、当然音楽しか興味がなかった。塾からの帰り道に寄ったCDショップ(レンタル屋さんの販売コーナーだったと思う)でたまたま買ったCDが、ジョビンのCDだった。

なんだかとんでもなく暗い曲もあったりして、そういうのは当時あまり好きではなかったのだけれど、軽快なボサノヴァは、暑い日に、とても気持ち良かった。ちょうど、1998年でボサノヴァ40周年ということだったのだ。

中には暗いんだか、軽快なんだか分からない曲もあって、不思議なグルーヴに、虜になった。不思議な音楽だった。マジカルだった。ネオアコと同じく、「どこにもない、どこかの世界」に連れて行ってくれたのだ。

⑤モーマスとフレンチ・ポップス

Momusというアーティストのファンになったのは、大学生の頃であろうか。これまた、「マイナーほど素晴らしい」「変態ならなお良し」の条件を満たすアーティストであった。全てのアルバムが素晴らしかったのだけど、誰に薦めても、見事に、誰の共感も得られなかった。

モーマスをきっかけに知ったセルジュ・ゲンスブールもよく聴いた。思えば、大学の第二外国語は迷わずフランス語を選択したので、高校時代から聴いていたのかも知れない。彼の音楽からは、死の匂いがした。それが、何とも言えず魔力を発していた。

いずれにせよ周りの共感を得ることはなかったが、この頃にはもうそれを求めることはなかった。そしてフランス映画をよく観た。大人になった気がしていた。

⑥そしてAOR

なんとなく大学生になった私は、結構迷っていたけれど、音楽に詳しいことだけは自負していた。バンドをやるほど弾ける気分でもなかったので、コツコツと音楽を探っていったのだけど、そこで好きになったのがAORだった。

ちょっとジャズっぽいのが聴きたかったのかも知れない。でもジャズはまだ分からなかった。タイトなリズムに、知的なリズム。ドナルド・フェイゲンのアルバムジャケットが大学の近くのお店に飾られていてカッコ良かった。ただし一番好きなのはルパート・ホームズだ。

⑦突然のビーチ・ボーイズ・ブーム

この頃になると、自分が聴いていないものを探すようになっていった。ビーチ・ボーイズの紙ジャケットが発売になったのを機に、最高傑作と言われていた「ペット・サウンズ」を聴いてみた。素晴らしかった。これまた明るくはないんだけど、胸を締め付けられるような切なさ、美しいメロディとコーラスが、僕の心を潤してくれた。


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