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記憶の彼方の明るい月光

月の光は明るいし、青っぽい色をしている。

そんな極々当たり前のことを、大都会神奈川に来てからはなかなか感じることができずにいる。

満月の場合、月光は0.25ルクス…………20m先に置いた100ワット電球の明るさと大体等しいらしい。中国の故事に「月光読書」なるものがあり、その気になれば満月の明るさのみで本を読むことも可能である。それほどまでに、月というものは明るい。

ここ1週間ほど夜の空を眺めることが増えたのだが、なるほど。星の海の中に、確かに半分くらいがぽっかりと欠けた月が、同心円状の、明るさのグラデーションの丁度中央にぷかぷかと浮かんでいる様子が見える。

月は十分に眩しい。近くの星たちはその明るさに溺れてしまって見えないほどだ。

だけれど、どうにも、もう一息。物足りなさを感じてしまう。

僕にとっての月というものはもっと、唯一無二の明るさを持っているものだった。それこそ、月明りだけが自分を照らし、月明りだけで影を作ってくれるような。それくらい。

月の光は青い――いや、実際はもっと赤い光の方が強いものの、人間の目は暗所で青い光を優先的に捉えやすいが為に、月の光を青く感じるようであるが…………。まぁ、人にとって、夜空に浮かぶ月の光、というものは青いのである――ということを、大都会神奈川にいると、どうしても体感することができない。

地元にいた時の夜の色は「青」だった。紺に近い、何処か落ち着く青色。

自室の電気をつけて勉強するなり読書をするなり、ゲームをするなり夜食を取るなりした後、眠りにつく際に電気を消す。おおよそ零時を少し回った程度の時間である。

すると、自室よりも外の方が微妙に明るい。青っぽくて、穏やかで――それは、ブルーライトとは全く違った穏やかさで――柔らかい光が、カーテンの隙間を通って自室に差し込んでくるのである。なんでこんなに明るいのだろう?と外を見ても、近所の人々は皆寝静まり、街灯一つ点いていない。何の光なのかといえば、月の光だ。

月の光は穏やかでどこか暖かい。身が凍えるような真冬であろうと身をやさしく包み込み、暖めてくれる。夜なのに暗闇とはならず、心地よく感じる程度の明るさ。南に面した僕の自室の窓は、晴れている日は毎晩、そんな月の光を入れてくれる。その優しい青い光に包まれて眠るのがとても好きだから、レースのカーテンごと全開にしてしまうほどである。


……対して。大都会神奈川での夜の色は、「白と黒」である。

部屋の電気を消せば真っ黒、外に出れば街灯と住宅街の光。黒に白が混ざる。空を見上げても、地上の白黒に引っ張られて空が黒く、星と月が白く見える。両極端なコントラスト。

この白黒がどうにもこうにも落ち着かなくて、僕は最近街灯のない場所、住宅の光がない場所を求めて散歩に出るようになった。

驚かされた。

街灯や住宅の光がない場所など、何処にもないのである。

人の作り出した光なのだから、人の力で簡単に消せばいいのにと思うが、世間はそうもしてくれないらしい。

先週あたりは潮風に当たって波の音でも聞こうと思って、みなとみらいの臨港パークのお散歩に出かけたのだが、まぁ、人の光から逃れることはできなかった。

海の向こうは流石に海だろう。だから光などないはずだ。そう思ったが、いやいや。海の向こうには人が住む陸地があった。海なし県民には全く以て理解不能である。目の前の海を眺めているはずなのに、見える範囲に陸があるはずがない。海の向こうはアメリカか中国か韓国、あるいはオーストラリアあたりであろう。そう思っていたはずなのに、目の前の海の向こうには、煌煌と輝く橋や工場の光。眠ることを知らないのだろうかと思ってしまった。

完全なる白黒。光は白。海は黒。月光のみに照らされると海は青く見えるようなイメージなのだが、あいにくながら僕は海なし県民。その情景をこの目で見たことがないから確かめようがない。

ならば夜の公園だ。夜の公園であれば人の光などあるまい。人もいないのだから、どうして道を照らす必要があろうか?

そう思って公園内を歩こうとしたけれど、まぁ、甘かった。

足元には、あっちこっちにライト、ライト、ライト。それらはぽつりぽつりと、誰がいるわけでもない道を健気に照らし続けていた。

一本道の両脇にたくさんの電球が並んでいて、道を左右から照らしてくれるというような光景はゲームやアニメの中だけにしかないんだろうなと思っていたが、都会にはあるんだなぁと謎に感慨深くなってしまったわけである。

なるほど、これなら思いを寄せる人や恋人と来るのにうってつけなわけである。誰もいない中で、自分たちの通る道がわざわざ綺麗にライトアップされている。そんな中を歩けば、世界—―少なくともその時間帯のその場所には――自分たちしかおらず、そして自分たちのみが主役であるかのような錯覚に陥ることは容易であろう。

光のない場所は黒。
光のある場所は白。

自分たちは白く照らされていて、それ以外は黒。

なるほど、大都会の光は「分断」するような光なのかな?と妙に腑に落ちた。


明るい場所と暗い場所。
繁華街と路地裏。
開店中と、店じまい。
主役の自分たちと……それ以外。

いやいや、何も全く否定したいわけではない。分断等という強い言葉こそ使ってみたものの、照らされるだけでちょっとした浪漫チックさに浸ることができ、光のあるなしで即座に様々を分類できるのは大変良いことであろう。

夜にジョギングするランナーは懐中電灯を持ち歩き、暗闇という「無」に対し、自分という「有」の存在を自動車にアピールする。分断は、立派な役割である。

それに比べて、自然光……特に、月光というものは、「分断」ではなく、「包含」……全てを包み込むような特性があり、僕はそちらの方がきっと落ち着くんだろうなと、ふと、腑に落ちた。

月の光は全てを等しく青っぽく照らす。
0.25ルクス程度の光で、その場にある全てを等しく照らす。
地元のような田舎の田んぼ道には街灯という「抜け駆け」がいないから、その場の全てが平等である。

人間も人間以外も。動物も植物も。生物も、無生物も。

やさしさを感じる程度の明るさで、けれど、そこに立っていれば自分の陰ができるのに十分なくらいの光。それが自分を包み込んで、夜の世界と自分とを同化させてくれる。

ここに光が当たっていないから黒、ここに光が当たっているから白。ではなくて、全てに、緩やかに光を当てるから、全て青。

誰一人として置いてけぼりにせず、自然と一体化させてくれるような、包含する光。それが、きっと僕にとっての月光なのだと思うし、そっちの方が落ち着くのだと感じる。

深夜零時を少し回ったとき、部屋のカーテンを少し開けて、そこから真っ黒い部屋に差し込む月の光を楽しんでいる瞬間。僕がこの世の全ての競争から逃れ、ただただ穏やかな時間を過ごせるような気がするのは、月の光の持つ包含、という特性のおかげなのかもしれない。

24日に1日だけ実家に帰り、一晩を実家で過ごす予定である。存分に夜の散歩に繰り出し、街灯のない道で自然光を浴び、夜は自室のカーテンを全開にして眠る。そんな贅沢をはやくしたい。

これは所謂、ホームシックというものだろうか?

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